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「サド侯爵夫人」

作:三島由紀夫
演出:野村萬斎

ルネ:蒼井優
アンヌ:美波
シャルロット:町田マリー
シミアーヌ男爵夫人:神野三鈴
サンフォン伯爵夫人:麻美れい
モントルイユ夫人:白石加代子

***
2012年3/14に世田谷パブリックシアターで上演された回のテレビ放送。
見に行きたかったけれど予定が合わなかったので、テレビでやってくれて物凄く嬉しい。BSプレミアムシアター様のしもべです。

去年ミシマダブルで全員男性の「サド侯爵夫人」を見た<感想
ルネが両極端すぎて思わず色々比較して語りたくなったので。

ヒガシのルネはとんでもなく美しかった。鏡張りのセットのおかげで、あらゆる角度から見られるルネの姿はきれいで、台詞のかたさも一本調子さも許してしまいそうな、その佇まい自体に価値のあるルネだった。その硬さ、感情表現の薄さが持って生まれた造詣の美しさと相俟って、ルネをより貞淑に見せていたように思う。おとなしくて、慎ましやかな姉、妻、娘。
それに比べると蒼井ルネは奔放な感じがする。彼女の場合は口調が全体的に大袈裟というか、舞台の台詞ってこういうのでしょう、という感じの口調。ただ「南へ」で見たときはそうではなかったので、故意にそのわざとらしさ・過剰さを作っているのだろう。蒼井ルネは意志のある貞淑とでも言うか、自分があらゆる選択肢の中から貞淑を選んだような強さが見える。その選択肢には放蕩もあっただろう、と思わせる。ヒガシのルネは貞淑以外の道を知らず、それ以外を選ぶことを悪徳だと確信し、自分で自分を雁字搦めにしているような感じがあった。
蒼井ルネはそういう女なので、母親にクリスマスの夜の放蕩を暴かれたあと、化ける。悪ぶっているとか開き直っているとかそういうのとは少し違う、生来持っている強さが出てくる。母親にも妹にも攻撃的で皮肉屋だ。母を困らせておいて、どこか楽しそうにも見える。モントルイユの「アルフォンスが話しているようだわ!」という台詞がこの上なく的を射ているルネだ。
素朴な容姿に、他の登場人物と比べて薄い化粧、地味な衣装。そういうルネが見せる背徳、性悪はどろどろしている。三幕に至っては、ルネは静かに狂っていると思う。若い頃は奔放な生活をしたものの、結婚して落ち着いた女性になったアンヌや、年老いたモントルイユ夫人と比べると更にその狂気が際立つ。貞淑の仮面をかぶった、頭がしっかり働いてる狂人。蒼井優の芝居は「南へ」のときも今回もちっとも好みではないのだが、徐々に本性を見せるルネの狂いっぷりはよかった。なんともいえない違和感、うまく言葉にできない頭のおかしさ、が怖い。
あと、ミシマダブルではうまく咀嚼できなかった「アルフォンスは私だったのです」という台詞がすごくしっくりきた。これだけでもかなりの収穫。

色々な人から台詞があぶなかった、と言われていた白石さんだけれど、この収録の一回に限って言えば、そんなことはなかった。それぞれが敢えて時代背景を無視した衣装を着ているんだろうけれど、白石さんは着物というかお金持ちの遊牧民みたいな衣装だった。娘二人に向かって繰り返される「そんなことお言いでないよ!」という言い回しが耳に残って好き。

アンヌは若くて綺麗でいかにも妹然とした女性だ。貞淑なばかりで面白みのない姉と正反対の魅力的な自分、をある程度理解しているんだろうな。アルフォンスと旅行したことを得意げに話すあたりの顰蹙を買いそうな我儘さも、若い頃は魅力となっただろう。そしてそれが大きな欠点になる前に、彼女は大人になった。老いた母の身を案じ、過去に執着している姉をあしらって、彼女は普通に生きている。
二幕の冒頭、アンヌとルネが手紙をめぐって笑いながら追いかけっこをしているシーンの微笑ましくなさ、がすごくよかった。東山ルネと生田アンヌの百合っぷりに比べて、こちらは殺伐としている。女同士のほうが刺々しい。

麻美さんのサンフォンの美しさよ…。長い髪、長身、すらっと伸びた背筋、レザーのスカートからのぞく足!悪辣!机に座ってアルフォンスの事を説明するシーンの、官能のメーター振り切っちゃったおどろおどろしい感じ!そんじょそこらの人間の手には負えない感じがいい。

三幕のシャルロットの鼻につく感じもすごくよかった。革命後変わったとモントルイユ夫人が言う通り、シャルロットは図々しく、偉そうになった。反抗的な目つきを隠そうともしないし、口のききかたにも棘がある。彼女がサンフォンを好きだったこと、それでもサンフォンの元を去ったこと、を想像するだけでたまらないですね。

シミアーヌのおくさまの善人顔、善人ならではの表情も好き。虚勢も見栄も関係ない世界へ行った彼女は幸せそうで、物事をすべて良い風に解釈しようとしている。ルネがそこへ行けるとは到底思えないんだけれど、彼女に必要なのは、あらゆるものを物理的・精神的に断ち切って、もう一度考え直すこと、だったのだろう。
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posted by: mngn1012 | 映像作品 | 16:24 | - | - |

「M.クンツェ&S.リーヴァイの世界~2nd Season~ウィーン・ミュージカル・コンサート 東京国際フォーラムキャスト版」

今年の3/25に東京国際フォーラムホールCで行われた、M.クンツェ&S.リーヴァイの世界~2nd Season~ウィーン・ミュージカル・コンサートのDVD。シアタークリエ、大阪・福岡・愛知でも上演されたこのコンサートは、地方によって微妙にキャストや内容が変化している。3/25には出演しなかったパトリック・シュタンケの歌唱は、大阪公演のものが特典映像として収録されている。

大阪に行った分の感想はこちら。基本的にはこの時の感想から大きく変わるものはない。
3/10 梅田芸術劇場・昼

実際に見た曲が殆どなんだけれど、この日はまぬけなことにオペラグラスを忘れていったので細かい表情などが見られなかった。このDVDは決して褒められた画質ではないのだけれど、それでも表情が見られるのが嬉しい。「100万のキャンドル」の新妻さんの涙がとても印象的。あと新妻さんは「ダンスはやめられない」の表情も凄く良かった。色々なものに疲れて、飽いて、膿んでいるからこその色気みたいなものが垂れ流し。新妻コンスはすごく女だ。
「MA」ではこのコンサート初公開の日本語訳もあり。なんでそんなところで贅沢なことをするんだ…いいけど。大阪には出演しなかった涼風さんの、年季の入ったお人形さんっぷりが凄い。髪型と顔だけじゃなく、ドレスもきっちり、筋金入りのお人形、という感じ。

一幕ラストバージョンの「影を逃れて」のときの、井上さんのイッてる目がいい。「襞に触れて」のところで、手を伸ばしてるときの陶酔っぷりがいい。「僕こそ音楽」の、明るい未来を見ているヴォルフもいいんだけれど、この逃れられない影に潰されそうなぎりぎりの精神状態のヴォルフが好き。
Wヴォルフが両方出たので、「僕こそ音楽」は井上さん、山崎くんと続けて二回。代表曲だし、これが一番両方のファンにとって優しい構成なのかな。どうせお祭りなら一緒に、とかでもよかった気がするけれど。山崎ヴォルフは音源になっていないので嬉しい!ラストの「影を逃れて」は後半掛け合い!
リーヴァイ国際ミュージカル歌唱コンテストでグランプリを受賞した平田愛咲さんも登場。正直「ハムレット」ではあまり印象に残っていなかったんだけれど、「愛していれば分かりあえる」は息もあってて良かった。小野田くんも出てほしかった。闇広何回歌ってもいいんだよ…!

瀬奈さんはトートとして、ダンサーを引き連れて登場。堂に入った流し目がすごい。男役の目というか、トート閣下の目。せっかくだしシシィの曲も一曲くらい聞きたかったけれど、メイクの問題なんかもあるのかな。涼風さんのシシィも見たかったなー。
「夜のボート」で一路さんが泣いていたのにすこし驚いた。本編だと、あそこで泣かないのがシシィだと思うけれど、コンサートだしね。むしろコンサートでそこまで入り込めること、がすごいのか。新妻さんにしてもだけど、涙すら演出のようにきれいに流れる。
あと何と言っても山崎ルキーニですよ…!登場してから「在庫なし」と歌うあたりは画面からでも気負いが伝わってきて、皮肉っぽく笑いながらゆっくり階段を下りる仕草も非情に考えられた・練られた感じがするんだけど後半すごく調子を上げてくる。「ハプスブルクの終わり」のところがすっごい好き。笑い方と歌い方が下品でいい。
山崎ルドルフの「闇が広がる」が収録されていないことには絶望している。

特典映像で入ってるパトリック・シュタンケの「最後のダンス」、ラストの「俺だ」にあたる高音の部分で、全然身構えないのがすごい。 間としてのタメはあるんだけれど、すごく普通に歌ってる。普通に歌って、きれいにシャウトしている。歌詞が違うというのもあるのかもしれないけど、気負いがみえないのが格好いい。「ミルク」もすごくのびのびやってて、でもきっちり俗悪なアジテーターでときめく。もうちょっと俗悪でもいいと思うけれど、パトリックのルキーニは非常にすきでした。
かれが最後登場する「影を逃れて」が収録されていないのは残念だな。井上ヴォルフとの戦いみたいな歌唱が素晴らしかったの!

大阪で聞いてすばらしかった「lacrimosa」も入っていた。井上さんと土居さんの学年ネタはここでも継続されていた。
山口さんの挨拶、「宝塚歌劇団同窓生によるコンサートにご来場いただき」に笑った。フリーダム!
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posted by: mngn1012 | 映像作品 | 23:08 | - | - |

英国ロイヤル・バレエ公演 バレエ「不思議の国のアリス」

振付:クリストファー・ウィールドン
台本:ニコラス・ライト
音楽:ジョビー・タルボット 
指揮:バリー・ワーズワース
管弦楽:コヴェントガーデン王立歌劇場管弦楽団

アリス:ローレン・カスバートソン
ジャック/ハートのジャック:セルゲイ・ポルーニン
ルイス・キャロル/白うさぎ:エドワード・ワトソン
アリスの母親/ハートの女王:ゼナイダ・ヤノフスキー
アリスの父親/ハートのキング:クリストファー・サウンダース
マジシャン/マッドハッター:スティーヴン・マックレー
公爵夫人:サイモン・ラッセル・ビール

***
DVDは発売前で、わたしが見たのはテレビ放送されたもの。バレエに関しては門外漢なのだけれど、「アリス」と名がついていたので録画してみた。ちなみに唯一見たバレエは「うたかたの恋」だよ…ルドルフ皇太子だよ…そういえばあれも英国ロイヤル・バレエでした。
バレエは予め話を知っていないと訳がわからないというイメージがあって非常に敷居が高いんだけれど、これは面白かった。話を知っているということもあるし、原作とは違うオリジナルの展開も分かり易い。あと多少話の筋がわからなくても、視覚的に物凄く楽しいので気にならない。
バレエ的に・ダンス的にどうなのか、ということはさっぱり分からないけれど、衣装とメイクと美術と演出がものすっごく好き。ダンス以外のことを沢山しているので、純粋にバレエが好きな人には物足りないのかもしれないが、夢のような世界だった。アリス物の中で一番ときめいたかも。客席も使った華やかなセットと演出は体感してみたくなる。

とりあえず英語の出来る方もそうでない方もこちらの公式サイトをご覧下さいよ…写真の一枚一枚に涎が出るわ…。

黒髪おかっぱの、少女というよりは女性と言った雰囲気が出ているアリス。彼女が庭師のジャックにタルトをあげたことがきっかけで、ジャックはアリスの母によって追放されてしまう。悲しんでいるアリスは白うさぎの後を追って、不思議の国へ。
不思議の国というよりは二重世界、並行世界、みたいな感じなのかな。現実世界でのアリスの両親が、不思議の国ではハートのキングとクイーンになっていたり、現実世界ではアリス姉妹の知人であるルイス・キャロルが白うさぎとしてアリスを(結果的に)不思議の国へ誘ったりする。出番の問題、キャストの問題と言われればそれまでなのだけれど、人の話を聞かずにジャックを悪者だと決め付けてかれを解雇したアリスの母と、暴君そのものであるハートのクイーンの振る舞いが重なる。それを咎めない父もまた、クイーンの尻に敷かれたままのキングと重なる。

アリスのビジュアルも好きだなー。テニエルのアリスが大好きだけれど、この大人っぽいアリスも好き。服装もさっぱりしているんだけれど鮮やかな藤色のドレスだし、周囲がごてごてしている分、アリスとジャックの軽装っぷりが映える。ジャックなんて終盤はTシャツである。
どのシーンもすごいんだけど、魚従者と蛙従者の実写化はすごかった!ブタとコショウのくだりも、物語から飛び出してきたみたい。アリスの、可愛らしいけれど歪んでいて醜くておどろおどろしい、極彩色の世界が広がっている。クロッケーのシーンも壮観。クイーンの庭、白の薔薇を赤く塗るシーンもコミカルで可愛くて凄く好き。

アリスは不思議の国で色々な大きさに変化する。映像であればいくらでも調節できるけれど、舞台では本人のサイズを変更することができないので、演出でそう見せるしかない。大きな扉を用意したり、逆に、体の一部しかおさまらない扉を出してきたり。体の柔らかさを利用した動きも相俟って、彼女は舞台の上で伸び縮みを繰り返す。
結局わたしは映像技術を駆使したものより、限られた肉体を使いながら演出によって変化を起こさせるもののほうが好きなのだと思う。目の錯覚、印象の変化、見立て、そういうものに胸がときめく。
とはいえ映像も使われている。穴に落ちていくところなどは映像。他に、トランプ兵たちのダンスでも映像が効果的に使われている。トランプ兵たちが、みんなめいめい頭に数字をつけていて可愛いったらありゃしない。ああやって見るとどの数字も甲乙つけがたいくらい可愛らしいものに思えてくるから不思議。

マッドハッターが長いテーブルの上でタップダンスを繰り広げるマッドティーパーティも素敵。あとは何と言ってもチェシャ猫が!!すごい!!!不気味でかわいくておどろおどろしくてかわいい!!
ばらばらのパーツを複数の人間が手分けして持っているため、チェシャ猫はたやすく分解し、ふたたび元のかたちになる暗闇で何度も繰り返される瞬間的な破壊と再生がアリスを惑わせる。また顔がかわいいんだこの猫。

一幕の終わり、休憩の案内もいかれてる。血が一滴垂れている斧が天井から落ちてきて、そこに「INTERVAL」の文字が出る。

細部に至るまでくるってる、夢のようなアリスの世界だった。眼が離せない、そのまま世界に混ざってしまいたい美しさ。
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posted by: mngn1012 | 映像作品 | 15:52 | - | - |

「ダーク・シャドウ」

監督:ティム・バートン
脚本:セス・グレアム=スミス
原案:ジョン・オーガスト/セス・グレアム=スミス
原作・オリジナル脚本:ダン・カーティス

バーナバス・コリンズ:ジョニー・デップ
アンジェリーク・ブシャール:エヴァ・グリーン
ヴィクトリア・ウィンターズ/ジョゼット・デュプレ:ベラ・ヒースコート
エリザベス・コリンズ・ストッダード:ミシェル・ファイファー
キャロリン・ストッダード:クロエ・グレース・モレッツ
デヴィッド・コリンズ:ガリー・マクグラス
ジュリア・ホフマン博士:ヘレナ・ボナム=カーター

***
18世紀。イギリスから北アメリカに移住して水産業で富を為したコリンズ一家の息子バーナバスは、下働きの女性・アンジェリークからの求愛を拒む。実はアンジェリークが魔女だったため、その日からバーナバスとコリンズ家には災いが起こるようになる。両親は事故で亡くなり、バーナバスは運命の相手と言える最愛の恋人を自殺に追い込まれる。後追いしようとするも既にアンジェリークによってヴァンパイアにされてしまっていたバーナバスは死ぬこともできない。更に、バーナバスがヴァンパイアであることを吹聴して町の人々を焚きつけたアンジェリークの計画によって、バーナバスは生きたまま棺桶に入れられ、土の奥深く埋められてしまう。
200年後、ひとりの女性が住み込み家庭教師募集の記事を見てコリンズ家を目指していた。そこで彼女は荒廃した屋敷と落ちぶれた住人達、そして偶然棺桶から脱出することに成功したバーナバスと出会う。


***
最大の感想はどうせヘボンなんだろうなーと期待せずに行ったら想像通りだった、というものです。ただそのヘボンさというか、荒唐無稽さ・おまぬけさ・トンデモさもたぶん魅力なのだ、と思う。
60年代後半から放送されていた同名のテレビドラマを原作としているためか、映画でもバーナバスが蘇った時代が1970年代。ヒッピーたちが大麻を吸いながらベトナム戦争について語り合う様子が描かれたり、テレビからカーペンターズが流れていたり、車や商工業の様子も当時の感じみたい。その時代を生きた人たちにはおそらく懐かしいもの、で溢れているのだろう。
テレビシリーズをどういうふうに切り取って、もしくはアレンジしてこの二時間の映画にまとめたのかは分からない。ただ、膨大な量から切り貼りしたのでこんなに無理やり詰め込んだような内容なんだろうか、とは思った。いきなり四つんばいで登場して実は私オオカミ少女でした!今から僕のお母さんの亡霊(幽霊)が攻撃しますドーン!みたいないきなりの展開乱発。ただシリアスとコメディとホラーがごちゃまぜになっているので、深刻に突っ込んだりする必要もない。おいおい、と思いつつも気軽に見るのがいいんだろう。だから銃を受けても動じなかった魔女がシャンデリアにぶつかったら大けがを負うんだ、とか、どうやってアンジェリークはずっと同じ地元で200年間うまくやってきたんだろうかとか、そういうことは気にしないようにする。
する。

棺桶から出てきたバーナバスの、冷静なんだか慌ててるんだか分からないテンポが可笑しい。マクドナルドの看板のMの文字を見て「メフィストフェレス…」と呟いたり、林の奥の車の光に「サタン」と呼びかけたり、コンクリートの地面を怪しんだり。ベタだけどバーナバスの見た目が見た目なので、その辺りも相俟ってじわじわ面白い。

かつてのバーナバスとアンジェリークはどういう仲だったのか。200年前のシーンでは、一方的にバーナバスにキスをしているアンジェリークが愛を乞うて拒まれていた。同意のキスなのか、彼女の強引なキスなのか定かではない。ただ200年後にアンジェリークに誘惑されて彼女の胸を触ったバーナバスは、まったくしぼんだりしていない、とその感触を過去と比べていた。なのでやっぱり肉体関係も普通にあったのよね。
金持ちでハンサムなバーナバス坊っちゃまが好きでもないのにつまみ食いした下女に復讐された、ということになると、あんまり気の毒でもないな。巻き込まれた人々は可哀そうだが、ちょっと自業自得じゃないですか?という昼ドラや2時間ドラマの匂いが強くなる。その辺のシリアスすぎないところは気楽でいいのだが、方法は物騒だったが本当にバーナバスを思っていたアンジェリークの気持ちに一切優しい言葉をかけなかったところは驚いた。
バーナバスは徹底的に彼女の思いを否定する。好きだ、愛している、手を組んで仕事をしたい、という申し出はすべてはねのけるし、アンジェリークの気持ち自体をも否定する。でも誘惑に流されて関係はもっちゃう。終わった瞬間に二度とやらない、という冷たい言葉つき。かれはかつて最愛の恋人を殺されているし、200年間閉じ込められていたのだから、厳しい態度を取って当然ではあると思う。けれど、死の間際に自分の心臓を取り出してかれに愛を示そうとするアンジェリークにも、バーナバスは冷酷だ。彼女の気持ちに応じないだけでなく、それを受け止めることも、存在を認めることさえもしない。その冷酷さは、かれがヴァンパイアになってしまったということなのかもしれない。

コリンズ家に向かう列車の中で見た広告を参考にして偽名を思いついたヴィクトリアは、本来はマギー・エヴァンズという、他の人に見えないものが見えるという理由で両親に通報され、子供の頃から牢獄のようなところでの監禁と奇妙な治療を繰り返されていた女性だった。彼女にはずっと、一人の女性の幻覚のようなものが見えていた。それは200年前に死んだ、バーナバスの恋人ジョゼットだ。マギー(ヴィクトリア)と同じ顔をした女性。
彼女の存在によって非人道的な扱いを受け続けてきたヴィクトリアだが、コリンズ家に向かったのは彼女の示した道だった。彼女がバーナバス復活の予兆を知らせてくれる。
アンジェリークの呪いによってジョゼットは死んだ。崖の上から飛び降りる時、彼女はあと一歩で届かないバーナバスに「助けて」と言った。ラストシーン、アンジェリークへの復讐を果たしたあと、バーナバスはヴィクトリアを探して同じ崖へ向かう。200年前と同じ光景。しかし今回かれは間に合った。すんでのところでヴィクトリアを引き止めた。
けれどヴィクトリアは喜ばない。人間とヴァンパイアでは同じ道を歩けない、と彼女は感じている。それはバーナバスも考えていたことであり、そのためにかれは自分の血と人間の血を入れ替える努力を繰り返していた。それはホフマン博士の死によって中断されてしまったけれど、実際続けていても成功していたのかは定かではない。
バーナバスが自分が人間になれば(戻れば)いいと思っていたように、ヴィクトリアは自分がヴァンパイアになればいいと考えている。当然バーナバスは拒むけれど、ヴィクトリアは崖から落ちることでその願いを成就させる。
落ちて行くヴィクトリアを追って飛び降りたバーナバスは、彼女の首筋に噛み付く。そして無傷の二人は抱き合い、バーナバスは彼女を「ジョゼット」と呼ぶ。ありがちだけれど、歪んだハッピーエンド。

当時そのテレビを見ていた人、その時代のアメリカを生きていたや精通している人、にはどううつったんだろう。触れるものが初めて過ぎて移入できず、かといって新しいものとして積極的に踏み込む気にもなれず、想像通りの出来、で終わってしまった。
ミシェル・ファイファーが美しかった。
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posted by: mngn1012 | 映像作品 | 14:09 | - | - |

うたの☆プリンスさまっ♪マジLOVELIVE1000% シネマライブ

シネマライブという名の、DVD発売前上映会的なものに行ってきた。大きな画面で見られる、ぐらいの気持ちだったんだけど、公式が「ペンライト持ち込み可」「歓声可」と発表していることもあって、いざ行ったらコンサート会場のようだった。グッズのTシャツ着てる人も多かったし、ペンライトは誇張ではなく持っていない人の方が圧倒的に少なかった。曲終わりには拍手が起こるし、掛け声も上がるし。リアルタイムのライブビューイングでもないので、不思議な光景だった。いやあの会場からすれば腕組みして見てる方がよっぽどマイノリティなんだけどさ…。

映画にお馴染みの予告映像や、携帯電話の電源オフなどの注意事項映像もなく、時刻になったらすぐに始まる。2時間ほどかな。
冒頭のマジLOVEの盛り上がりがすごい。アニメ第一話の冒頭に流れて以降、その勢いで一クール走りきったような印象があるこの曲。良い意味で頭のおかしい完成度である。一部フリ再現もあってかわいらしい。

「BRAND NEW MELODY」、突っ込み所が多すぎる衣装も含めて爽やかな音也だった。アニメの音也って超あざといと思うんだけど、てらしー本人が出てきて歌うとあざとくない。あざとい音也のあざとさに翻弄されるのも楽しいけど、さわやか音也もいいね。「虹色☆OVER DRIVE!」で一部直立不動で歌っててかわいかった。サビなど、一部の予め煽りを用意してるところ以外は結構立ちつくしている。この音也はアニメの音也と違って、ちゃんとルールを守りそうである。
「BELIEVE☆MY VOICE」にせよ「七色のコンパス」にせよ、トキヤとマモのキャラがあまりに遠いので、宮野さんがうたってる、という感じがすごく強い。宮野真守自身として人前で歌うこと、が沁みついてる所為もあるんだろう。表情豊かだし体の動きも大きいし、トキヤから一番遠いところにいるような人である。でも歌が物凄く好きなんだろうな、と伝わってくるところがトキヤと同じ。寧ろ本人名義の「オルフェ」が格好良かった。OPで聴いたときから、いい曲貰ったなあ、と思っていたんだけれど、歌ってる姿がとてもしっくりくる。
レン様は衣装完コス?でご登場。マイクスタンドがバラで飾られていた辺りも含めて、さすがである。登場の仕方やパフォーマンスで感じたのは、諏訪部さんの中でのレンのイメージというのが、おそらくゆっくり歩く・急がない存在なのだろう、ということ。イントロがかかってから登場するとき、マイクスタンドを持って左右に移動するとき、レンは決して走ったりしない。ゆっくりけだるそうに歩いて、それでちゃんと曲にに合う。見ていると心配になるんだけれど、レンにとってはそれが普通なんだろう。曲間の「仔羊ちゃんたち」「レディたち」への言葉もさすがの貫禄。
真斗は後々MCで鈴村さんが言っていたように、キャラクターとライヴのテンションにどこで折り合いをつけるか迷っていたみたい。真斗は武士的なキャラで、けれどライヴというのは笑顔でハイテンションで展開するもので。バラードの「Knocking on the mind」はおとなしいままで済んだけれど、二曲目の「Mostフォルティシ モ」は迷いがちょっと見えたかな。無防備にはしゃげない難しいキャラクターだと思う。しかしこの曲一二を争うくらい好きなので聴けて嬉しかった。
砂月全開のきーやんはさすがの貫禄。マモもそうだけど、人前で歌うこと、表情やしぐさと言ったパフォーマンスを含めて歌を聞かせる・魅せることがきちんと身についている人の歌だった。オリオン〜の間奏でにやっと笑いながら「四ノ宮砂月で〜す」と言った時の余裕とか、マイクスタンド担いで階段登る時の雄弁な背中とか、ステージで歌い続けてる人の姿だった。自信と根拠と実力のバランスが凄くいい。まあはっきり言って歌ってる姿がだんとつでかっこよかったですよ。(だってわたしバンギャル)
服装もかなりキャラに近付けて、なんというか全体のイメージが最も近かった・親和性が高かったのは何と言っても下野さん。「Changing our Song!」のサビの低いジャンプと奇跡のようなボックスステップは何事…!いじりたくなる他メンバーの気持ちが超分かる翔ちゃんっぷり。というか皆下野さんのこと好きすぎ。ダンサー四人を引き連れての「Changing our Song!」のダンスがツボりすぎて、夜の部ではダンサーとして出演したいとまで言いだす面々。取り敢えず「男気全開Go!Fight!!」のサビではタオル持って全員が出てきて後ろではしゃいでた。時間のある人がわざわざ楽屋までタオル取りに行ったらしい。皆下野さんのこと好きすぎ。
そのあとが「オルフェ」だったので、直前の曲のラストまで参加してるマモすごいなー、でもDVDでは編集されてるだけで案外曲と曲の間に時間があるのかなーとか思ってたら、実際ギリギリだったらしい。それでも参加する必死さがばかで微笑ましい。

沢城さんからのビデオメッセージもあり。オーディションに至るまでの話とか、客席にいる皆一人ひとりが春ちゃんなんだ、とかそういう話。わたしは女性声優だとだんとつで沢城さんの芝居が好きなんだけど、この人のクレバーさと情熱がが非常によくでたコメントだと思った。そのあとはセシル役の鳥海さんが「今ロスにいる」「予定が合わなくて行けないけれど頑張って」「セシルのダイジェスト映像をご覧ください」と語ったビデオが流れて、そのままご本人登場。登場したことは既に知っていたんだけれど、実際生で見てたらびっくりしただろうなあ。でも実際の会場で緑のライト振っている人が沢山いて、さすがだと実感した。鳥海さん数年前に見たときより大分見た目が丸くなっててびっくりしたんだけど、相変わらず、キャラクターで歌う、ということがむちゃくちゃ上手い人である。

トークはその鳥海さんのドッキリの話とか、応募者の倍率の話とか、翔ちゃんのダンスとか、ライヴが楽しいとかいう話で殆ど時間がなくなってしまう。四つほどトークテーマがあったけれど残り時間が一分しかない、というマモに、無理やり四つとも答えようとする鈴村さん。こう言う時に生きるのが鈴村・谷山の瞬発的なボケが巧みな二人である。

ラストの「未来地図」や挨拶、アンコールあけのアニメ二期発表からフルコーラスの「マジLOVE1000%」まで、とにかくメンバーがむちゃくちゃ楽しそうだった。そりゃこれだけ人気が出て、驚異的な倍率を掻い潜って参加した客の熱気に包まれてライヴが出来たら楽しいだろうなあ。
アニメ二期の話のときに、てらしーが「まあこれだけ人気があるので…」的なことを言ってたのに納得してしまった。思い思いの発言をするメンバーの言葉にかき消されてしまったけれど、これだけ人気があってこれだけCDだのDVDだのが売れたらそりゃ二期やるよね、って話である。さっさと東京ドームでやるべき。
デュエット曲とか歌ってない曲沢山ある(からまたライヴがやりたい)というマモの言葉にも凄く首肯。100曲マラソンするといいよ。その時は那月と翔ちゃんは!マイクを交差するパフォーマンスを!やれよ!!!な!!!

アンコールのマジLOVEを歌い終わったあと、客席に手を振るメンバーたち。BGMに流れている「未来地図」のカラオケ。マモが歌いだしてしまったものだから、客もメンバーも歌う歌う。結局ワンコーラス歌いきってしまう始末。本人たちの充実感とか、だからこそもっとやりたいという気持ちとかが全面にでた良いシーンだった。人気があるからこそ、成功しているからこそできる余裕とか、だからこその渇望とかそういうものが出ていたと思う。むっちゃくちゃ楽しいだろうなあ皆。
二期も楽しみだなー。食費を削って楽器を買う、お肉につられる貧乏オッドアイ先輩に猛烈期待しています。天使。


マジLOVE1000%
BRAND NEW MELODY
BELIEVE☆MY VOICE
Knocking on the mind
悪魔のKissは炎より激しく
オリオンでSHOUT OUT
Changing our Song!
Eternity Love
七色のコンパス
アンドロメダでクチヅケを
Mostフォルテシモ
世界の果てまでBelieve Heart
虹色☆OVER DRIVE!
男気全開Go! Fight!!
オルフェ
未来地図

<Encore>
マジLOVE1000%
未来地図
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posted by: mngn1012 | 映像作品 | 20:58 | - | - |

「山の巨人たち I Gianti della montagna」

作:ルイジ・ピランデルロ
演出:ジョルジュ・ラヴォーダン

コトローネ:平幹二朗
イルセ:麻実れい
伯爵:手塚とおる
ディアマンテ:田中美里
バッターリア:綾田俊樹
ズグリーチャ:田根楽子
クローモ:大鷹明良
スピッツィ:植本潤
小人クアケーオ:及川健
ドゥッチョ・ドッチャ:久保酎吉
サチェルドーテ:渕野俊太
ミロルディーノ:細見大輔
ルマーキ:大原康裕
マリーア・マッダレーナ:真織由季
マーラ・マーラ:佐伯静香

***
2008年に上演されたもののテレビ放送。

とある山間の屋敷に、知り合いのつてをたどって旅の一座が訪れる。屋敷の主である魔術師のコトローネはかれらを歓待しようとするが、かれの仲間である風変わりな連中は一座を訝っている。また一座の方もこの屋敷と住人たちに対する不信感を隠さず、どころか仲間内でも揉めているしまつだ。

魔術師:平幹二朗、の疑いの余地のなさっぷりがすごい。説得力がありすぎる。
伯爵とその妻であるイルセを中心にした、10名からなる一行は揉めに揉めている。興行の失敗が重なり興行自体ができなくなっている現状、貧しさや空腹や疲労や先の見えなさに苛立っているかれらは、めいめいに意見を言い合う。最初、話の中心になっているのは、かれらが上演している芝居を書いた詩人の求愛にイルセが応じなかったこと、それによって詩人が自殺したことだ。
元々女優だったイルセは伯爵と結婚したことで一端引退するも、詩人の脚本と舞台への復帰依頼によって女優の道に戻る。彼女を溺愛している伯爵はそれを支援してくれていたようだ。彼女が既に既婚者である以上、イルセが詩人の愛に答えないことは非情なことでも残酷なことでもなかった。しかしそれによってかれが死んだことで、イルセの精神は不安定になる。ヒステリックに叫んだり、とおくを見つめて呟いたり、かと思えばしっかりした自分の意見を述べたりする。
詩人の死を、作品と一緒に背負わされることになってしまったイルセ。彼女も周囲もそれを「神聖なる殉教」だと言う。彼女に罪はないのに、罪の意識だけが刻まれてしまった。

独特の台詞がたくさん。コトローネの「終わりのない神聖な酩酊が必要」とか「優雅な物乞い」とか、文字と音だけでどきどきする。平さんはひとつひとつの台詞がすてきだなあ。
再現に非常に金のかかる芝居、そのうえ評価されず成功しなかった芝居のために伯爵は私財の殆どをなげうってしまった。いまや駅のベンチで一晩すごすこともあるほどだ。それについてイルセは「あの豊かさでこの貧乏を買った」と言う。この言いまわしもいい。本当の金持ちにしか言えない台詞だと思う。

ひとまず屋敷で一泊させてもらうことになった一座の人々は、その夜現実とも幻ともつかない不思議な体験をする。屋敷の周囲にいる人間たちは個性的だ。金の入ったトランクをつねに胸に抱きかかえ、周囲を警戒している年配の男。メガホンでふしぎな言葉を放す赤い服の男。男たちに好きにされても、子供を産んでも、そのことにすら気づけない、目と口に笑みを浮かべたままの白痴の女。天使との邂逅を語る女。マンホールから出てくる着飾った骸骨、アコーディオンを演奏する骸骨。
仲間のひとりが自殺する幻想を数名が共有して見ることもあった。かれは確かに首に縄をかけて橋から飛び降りたのに、実際は無傷で屋敷の中にいた。何が本当で何が嘘なのか分からない。息苦しいと追い詰められていくイルセと、夫との口論。無数の断片的な物語が重なっているようにもみえる。

翌日、夜のうちに「一人で上演できる」程度に台詞を暗記するほど、一座が上演する芝居の本を理解したコトローネは、ひとつの提案をする。結婚式を控えている「巨人たち」の前で上演をしてみないか、というものだ。そこに劇場はあるのか、と聞けば、巨人たちなら劇場をつくることも難しくない、とかれは言う。質問と回答が微妙にずれながらも、一座はその提案に乗ることにする。

NHKプレミアムシアターには足を向けて寝られないくらいお世話になっているのだが、本編放送前に入る作品紹介がとても苦手である。作者・演出家などの紹介くらいならまったく構わないのだが、これから放送するシーンを使ってあらすじを細かく丁寧に紹介してしまうので、ネタバレ嫌いとしては絶対に見たくないのだ。その理由と、深夜に放送されていることもあっていつも見るときは紹介シーンを早送りにしてみている。なので、この「山の巨人たち」が作者の死によって未完に終わった作品であること、息子に遺言として伝えられた今後の展開についての言及を利用したラストになっていることを、実際そのシーンが来るまで知らなかった。おどろいた。
「巨人たち」の前で芝居を見せるための稽古を始めるシーンで舞台はひとたび暗転する。それ以降は、真っ暗な舞台にイルセに似た人形が設置されているのがぼんやりと見え、ほかのメンバーはその背後にシルエットだけで登場する。これまでにイルセが発した台詞がコラージュされてたものが音楽とともに流れる中、字幕によって展開が紹介される。
実際に巨人の前で芝居をする前に、かれらは「住人たち」の前で芝居をすることになる。芝居ではなく他のものを見せろと言われる中、イルセは果敢にも芝居を始めようとする。しかし罵詈雑言を浴び、最終的に彼女は「ボロ雑巾のように」殺されてしまう。他にも被害者が出る、という紹介だった。

便利な言葉だけれど、非常に前衛的な舞台だった。現実と交錯するかたちで描かれる夢幻の世界は歪んだ美しさを提示してくる。真っ白なドレスや大きな兎の頭のかぶりもの、アコーディオンを演奏する綺麗に着飾った骸骨人形、官能的な照明、白塗りのバレリーナ、メガホンで話す道化、難解できれいな台詞たち。正気と狂気の間を行き来するような人々。
それらひとつひとつに意味を見出すようなことは到底出来そうもない。全体の世界観として美しかったし、その中でちりばめられた台詞も美しかった。コトローネ曰く頭まで筋肉でできていて、うまくおだてれば簡単に味方になってくれる「巨人たち」を、作品が作られた時代背景から鑑みてファシズムに酔う連中や軍人を示唆していると考えることも出来るようだけれど、その視点でものを見るにはあまりに不勉強なので、そういうこともあるかもな、くらいにとどめておく。巨人が巨人と呼ばれているけれど決して大きい生き物なわけでもない、みたいな台詞もあったので余計に不気味。
ともあれ必要なのは、今まで体験したことのないできごとに戸惑うイルセたちにコトローネが言った、実際に起こっていることを頭で理解するのではなく感じて受け止めなければならないという(ような内容の)ことなのだろう。実際に声が聞こえても魔術を見せられても信じられなかった序盤のイルセのように、自分の想像を越えたものごとをただ否定してないものとして扱うのではなく、ありのまま受け止めて受け入れなければならないのだ。たぶん。

理解できたとは言わないけれど、視覚的なものだけでも十分に魅力的で、そして夢に見そうな不穏なラストだった。
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posted by: mngn1012 | 映像作品 | 23:01 | - | - |

「みんな我が子」

作:アーサー・ミラー

ジョー・ケラー:長塚京三
ケイト・ケラー:麻実れい
クリス・ケラー:田島優成
アン・ディーヴァー:朝海ひかる
ジョージ・ディーヴァー:柄本佑
ドクター・ジム・ベイリス:隆大介
スー・ベイリス:山下容莉枝
フランク・リュピィ:加治将樹
リディア・リュピィ:浜崎茜

***
2011年12月に上演されたもののテレビ放送。
Wキャストの子役のうち、放送されたのは坂口湧久くんのほう。よく名前を見る子だなあ。

第二次大戦後のアメリカ。工場を経営するジョーと妻のケイト、復員して父の仕事を手伝う長男のクリスのもとに、かつて隣人だったアンが訪ねてくる。クリスとアンは結婚を両親に報告して承認してもらおうと考えているが、その様子に感づいている両親は複雑な心境だ。
兄弟の幼馴染みのアンだが、彼女はかつてクリスの弟・ラリーの恋人だった。ラリーは戦争に出たまま行方不明になって、数年戻ってこない。かれは死んだと思っているジョーやクリスと違い、ケイトはラリーは生きていて、いつか帰ってくるのだと信じている。ラリーのよき恋人であったアンもまた、そう思っているのだと信じているのだ。
また、アンの父親であるスティーブはかつてジョーの経営する工場で働いていたのだが、不備のある飛行機の部品をそうと知りながら出荷し、21名を死なせる事故の原因をつくったとして服役中だ。逮捕されたスティーブは裁判において、責任者であるジョーにも罪があると主張したものの、認められなかった経緯がある。スティーブとジョーの間に確執がある以上、スティーブの娘であるアンと自分の息子を結婚させることにジョーは複雑な気持ちを隠しきれない。しかしケイトよりは大分理性的で、アンにも親切だ。

幸福な家庭とその一員になろうとしている女性の間にある問題は、一幕においてはケイトがラリーの死を認めない一点のみだと言ってもいい。数年ぶりに戦争から戻ってきた人物の報道を聞いては次はラリーではないかと期待する。ラリーが行方不明になってから庭に植えた木が昨夜の雷で倒れてしまったことに頭を痛める。息子や父親が何か言っても頭が痛い、聞きたくないと取り合わない。アンをラリーの帰りを信じて待つ仲間のままで置いておきたい気持ちと、既にラリーではなくクリスに気持ちを向けているアンを追い返したい気持ちに挟まれながら、ケイトは一向に意見を変えない。
ケイトを演じる麻実さんの美しいこと美しいこと…!あの眉毛とあの目蓋とあの鼻とあの唇!長身と低めの声と黒髪!裕福な家庭の妻、家政婦がいるのに積極的に料理をする家庭的な部分を持ち、やさしい夫をたまに尻に敷く妻、けれど頑固でヒステリックな部分もある妻、近所の若い夫妻と仲良く付き合う妻…とケイトには色々な部分があるんだけど、全体的に抑えめというか控えめながらもきっちり色があってすてきだった。
長塚さんのジョーは、成功者でありながら良き家庭人であり、人の輪の中心にいる感じが自然に滲んでいる。いい夫、いい父、いい上司。息子の恋人にも優しく、空気が悪くなるとおどけてみせてムードを変える。

ケイトは全く意見を変えないけれど、父親はそれなりに協力的だし、アンとクリスの絆はしっかりしているし、まあなんとかなるんじゃないの、という雰囲気は後半になって打ち砕かれる。
アンの兄であるジョージからいきなり電話がかかってくる。父親の面会に行ったかれは、その足でこの家にやってくるのだと言う。一気に夫妻の間に不穏な空気が流れはじめる。

隣人のジムの迎えで一家のもとにやってきたジョージは少し不気味で奇妙な人物だ。愛想がなく、どんよりした表情のまま、ぼそぼそと会話をする。どうやらもともと快活な人物ではなかったようで、久々に再会する一家はそれほど驚かないけれど、それにしても今日は様子がおかしい。そして何より、かれは最初からクリスに敵意をむき出しにしている。
アンを連れて帰る、クリスとは絶対に結婚させない、とジョージは言う。強引で一方的なかれの主張を根気強く聞いてみると、かれは面会した父親から事件の真相を聞き、無罪放免になったジョーの意見がおかしいことを確信したのだと言う。部品の不備に気づいたスティーブはジョーに電話をしたが出なかった。とりあえず出荷を止めるも品物の催促をされ、再び電話をかけるとジョーは病気で家から出られないという。そして自分が全ての責任を取るからと、不備のある部品をばれないように加工して出荷するように命じた。それは全て、裁判で語られたことと同じ内容だった。けれど実際に父と対面して再び話をきいて、それが真実であるとジョージは確信したのだという。
けれどクリスもアンも認めない。裁判で語られ既に棄却された意見であるし、臆病者のスティーブはとっさに嘘をつくようなところがあったのだ。
堂々巡りの言い合いの途中、ケイトとジョーが現れる。スティーブが来ることに不安げな顔をしていたことなどおくびにも出さず、近所の子どもとの再会を喜ぶような態度をみせるケイトがすごい。かれが好きだったジュースを用意してあげて、ちゃんと食べているのか、付き合っている女性がいないならいい子を紹介してあげようか、と矢継ぎ早に話しかけて相手の心を開く。いつまでも子ども扱いすること、が彼女の心からの親愛の情であるように。この時のケイトの衣装が水色のドレス(ツーピース?)に同じ布のドレスハットだったのだが、そりゃあもう素敵だった…!他の人物の衣装は可もなく不可もなくなんだけど、ケイトのこのドレスと、終盤のケイト・ジョーのガウンはものすっごく好き。
ジョーは少し違う。敢えて威圧感を滲ませてジョージと対面することで、ジョージの口を閉ざす。スティーブがこれまでに犯したいくつものミスや言い逃れを羅列してジョージの確信を揺るがし、その上で出所後のスティーブや、NYに出て行ったジョージの面倒を見るつもりがいつでもあるという寛大さを示す。そして最後にケイトと同じように近所のおじさんの顔をすれば、ジョージの心は解けてゆく。ここは昔から我が家のようだったのだ、とぎこちない微笑みを浮かべる。

しかし直後に悲劇が起こる。
久々に再会したジョーが変わらず元気であることを口にしたジョージに、「病気で寝込んだことがないくらい忙しい」などと夫妻は笑いながら言う。病気をする暇もない。病気をしたことがない。直後にジョーが言う。一度だけ病気にかかったことがあった、と。それはつまり、あの、スティーブが部品に不備を見つけて電話した日のことだ。
けれどジョーのフォローは届かなかった。寝込んだことがないのなら、あの日ジョーがスティーブからの呼び出しを断ったのは、電話口での指示に留めたのは、意図的なものだったことになる。責任を取らないために、家を出なかったことになる。ジョージは再び心を閉ざしアンを連れて帰ろうとするが断られ、一人でこの家を去ることになる。
ジョージを演じたのは柄本佑。存在だけは知っていたのだけれど、すごく良いジョージだった。かれの抱える闇や鬱屈した心、哀しみや怒りがなんともいえない不気味さで表現されていた。実際のところジョージは最初から最後まで正しいことを言っていた、真実を見抜いていた人物だと最後に明らかになるのだけれど、そのことが明かされるまでの間、ジョージの主張が言いがかりや思い込みであるように見せる雰囲気がたしかにあった。地味な怪演、薄い喜怒哀楽の表現が絶妙。

クリスは真実を知る。父の主張は嘘ばかりだったし、母もまたそれを知っていて隠していた。隠し通せないと分かったジョーは開き直り、金の為だ、息子であるクリスに親として遺せるものを守りたかったのだと主張する。
開き直ってからのジョーがすごい。最初はなんとかクリスを落ち着かせて丸めこもうと適当な言い訳を重ねるが、クリスが騙しとおせないと分かると今度は自分の犯行をかれの所為にする。お前のために会社を残したかった、自分はもう年で一から何かを築くことなどできない、お前のためだお前のためだお前のためだ。顔を真っ赤にして怒鳴るうち、ジョーの顔が確かに老いているように見えてくる。先ほどまでは若々しい素敵な父親の見本のような顔だったのに、一気に十も年をとった哀れな老人のような姿に変わっていく。
人間は誰もきれいなままではいられないとクリスは知っている。けれどかれが哀しかったのは、かれにとってジョーは素晴らしい尊敬できる理想の父だったのだ。普通の人間、その他大勢と同じ人間ではなかったからこそ、その罪が許せない。

ショックで車に乗ってどこかへいってしまったクリスを待つケイトとジョーのもとに、アンが現れる。父がジョーにはめられたと知った彼女は、ジョーに何かするつもりはないと言う。その代わり、ラリーの死を認めたことをクリスに告げるように、ケイトに持ちかける。アンの提案も、それを実行するように言うジョーの言葉もケイトは拒む。受け入れられない、認められないと言い続けるケイトの様子はジョー曰く「狂っている」ように見える。
ジョーに去るように頼んだあと、アンはケイトに一通の手紙を見せる。ラリーが行方不明になった日に書いた手紙を見たケイトは泣き崩れる。そこへ帰ってきたクリスが手紙を受け取り、戻ってきたジョーに読ませる。
ジョーとスティーブの報道を聞いたラリーは父を許せないと感じ、目の前にいたら殺してやるほど憎み、これ以上生きていられない考えていることを綴っている。自分が行方不明になったという知らせがきたらもう待たないでくれというかれは、父の事件によって自殺したのだ。
ジョーはようやく知る。子どものために家庭のために働き続けてきた。けれど本当は、自分が出荷させた部品をもつ飛行機に乗って墜落したひとたちも「みんな我が子」だったのだ。
冷静になるためにドライブに出る、そのために上着を取ってくるとジョーは一人家の中に入る。そして銃声。

***
2時間強くらいの舞台。面白かった!
最初はおひとよしの息子、後半は父を言及する息子になったクリスが言っていた「幸せになることへの罪悪感」「金を手に入れることへの罪悪感」の話が印象的。隣人の妻曰く、周囲の人間が自分を恥じてしまうほど潔白なクリスという男は、戦争によって沢山の部下を失った。仲間を守るために我先にと命を投げ出すような気のいい人間を沢山死なせたことが、生き残って終戦を迎えたかれに大きな傷を残した。アンを愛しているけれど、アンと幸せになることに罪悪感がある。真面目に仕事をしているけれど、仕事で金を稼ぐことに罪悪感がある。このクリスは少し極端な例かもしれないが、この時代、アメリカでなく世界中にこういう人が沢山いたのではないだろうか。
(アメリカが舞台の「蜘蛛の紋様(獣木野生・作)」において、ベトナム戦争に仲間が出兵する様子を見ていた医学生カーターが、自分がベトナムへ行って仲間を殺さないことではなく「殺されないこと」に罪悪感を覚えるようになる、というエピソードがあった。かれもまた極端な男であったけれど、クリスと通じるものを感じる)

そういうクリスを励まし、かれに幸せになることを受け入れるようにしたのがアンだ。アンはラリーと結婚しようと思っていた恋人だが、クリスを以前から意識していたと述べている。実は彼女が一番普通で、一番不気味でもある。彼女は数年前から、ラリーが自分とアンの父の不祥事によって死を選んだことを知っていた。ラリーの死もその原因も知っていて、ラリーの兄であるクリスと恋仲になり結婚しようと思っていた。そこに、ジョーが疑ったような復讐を想像してしまうのは普通のことだろう。けれどアンにはおそらくそういうつもりはなかった。ケイトとジョーに手紙を見せたのは彼女曰く苦肉の策であったし、その目的はクリスとの結婚だった。隣人が指摘していたとおり裕福なクリスとの結婚に、工場経営者の長男であることへの打算があったのかどうかは分からないが、どちらにせよアンは最後の瞬間までクリスと結婚するつもりだった。
彼女が父親をどう思っていたのか、ジョーと父のどちらの言葉を信じたのか、それとも父親同士のことは自分達に関係ないと思っていたのかは分からない。けれどラリーというかつての恋人を殺したのは、クリスの父であり、自分の父に罪をすべて被せたジョーだ。そのジョーと再会してにこやかに語り、ハグをしながら、何を考えていたのだろう。意志の強い女性のようだが、アンの心がいちばん見えない。

「みんな我が子」であることにジョーは気づき、死を選んだ。墜落事故で死んだひとたちもみんなが誰かにとってのクリスやラリーである、というような意味(だけ)ではないように感じる。一歩間違えればラリーやジョーが巻き込まれていたとか、そういうのもちょっと違う。
では何なのか。分かるようで分からない。ジョーは父と子の関係を繰り返しケイトに語っていた。自分が父でクリスが子である以上、ジョーはクリスに詫びないし、クリスはジョーを警察に突き出したりはしない。父は息子のために働き、会社を大きくして残すことを考え、罪を犯した。ジョーにとっての「子」の認識は、非常に一般的な父親ものだと思う。大切な守るものであると同時に、決して逆らわないもの。みんながそういう「子」だということの真意が、見えそうで見えない。

近所の人たちも濃い。アンとジョージの家に新しく住んでいる医師のジムは人の良い普通の男性という感じだが、実はジョーの罪をずっと前から確信していたと最後に語る。
その妻で看護婦のスーは、ケイトたちとも親しげに接しているけれど、一家を妬み、憎んでいる。スーがアンにぶつけた下品で一方的で、けれど世の中にありふれている悪意が良かった。クリスが嫌いで仕方がない彼女の主張は非常に偏ったものだけれど、人間は多かれ少なかれこういうところがあるのだろう。
クリスやジョージの幼馴染みであるリディアと、彼女と結婚したフランクは人の良い若い夫妻だ。いつも笑顔で空気を柔らかくするリディアには三人の子がいる。運良く一度も召集されなかったフランクは占星術に凝っている。フランクが加治将樹で驚いた。かれの実年齢を知らない人が大多数であろう観客の前だからなのか、普通に三人の子持ちの気さくな青年を演じていた。明るくてちょっと空気が読めないけれどいいやつ、という感じでよかった。ミュキャスが知らずに出てるとびっくりするけれどなんとなく嬉しい。

途中から死を意識していたであろうジョーの、銃を隠すような不自然な動きと、庭にいて銃声を聞いたあと地面に座り込み、唇を震わせるケイトが印象的。このまま嘔吐するのか、泣き出すのか、発狂するのか、と思わせるような表情だった。
地味だけれど考えさせられるところが沢山あって、見ごたえがあって面白かった。
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posted by: mngn1012 | 映像作品 | 13:09 | - | - |

「musical GOLD 〜カミーユとロダン〜」

「musical GOLD 〜カミーユとロダン〜」
作曲:フランク・ワイルドホーン
脚本/作詞:ナン・ナイトン
上演台本/演出:白井晃
訳詞:森雪之丞 

カミーユ・クローデル:新妻聖子
オーギュスト・ロダン:石丸幹二
ポール・クローデル:伊礼彼方
クローデル夫人:根岸季衣
クローデル氏:西岡馬

***
2011年の12月に上演された作品のテレビ放送。

1878年、フランス。彫刻に没頭するカミーユ・クローデルは、寛大な父と演劇を志す弟・ポール、芸術に生きようとする二人の子供に猛反発する母と共にパリへ引っ越す。美術学校のアトリエで有名な彫刻家ロダンと出会ったカミーユは、かれに才能を見出され、助手としてアトリエに招かれる。
若くて才能のあるカミーユと、彼女の才能を認める「全能の彫刻家」ロダン。才能の面でも男女としても惹かれあった二人は愛人関係になる。ロダンに次々依頼が舞い込む一方で、カミーユは女であるという理由で個展を開くことも認められない。また、ロダンが自分を連れまわしながらも長く連れ添っている内縁の妻・ローズと別れようとしないこともカミーユの心労の種になる。ついに彼女はロダンと別れ、一人で生きる道を選ぶ。
パリではなくブリュッセルで彫刻家として成功したカミーユは移住を考えるが、個展を見に来たロダンとの愛が再燃し、結局フランスへ戻る。しかし結局性別や醜聞によって評価されないこと、ロダンがローズと別れないことによってカミーユは追い詰められていく。
そして女は結婚して出産するか、さもなくば修道院へ行くものだというばかりの母の不理解、かつては同じ価値観を持っていたのに、母の望む外交官になった弟の熱意がカミーユの邪魔をする。家を出たカミーユは一人暮らしを始め、芸術家仲間と放蕩生活を送る。
評価されず、金もなく、孤独の中で心を病んでいくカミーユ。ロダンが自分を殺すのではないかという強迫観念にまで駆られた彼女は、父の死後八日目に、母と弟によって精神病院に入れられる。そしてなくなるまでの30年、一度の外出も許されなかった。


最初の感想を言うなら、ロダン、一発殴らせろ。
音楽の美しさとか、美術の美しさとか、出演者の素晴らしさとか、そういうものには非常に満足できる内容だった。しかしそれに先んじて、この作品で描かれるロダンの生き方に腹が立って仕方がなかった。結局わたしがロダンのような、才能のある奔放な若い愛人と、長年支えてくれた体の弱い内縁の妻の両方に手を出して、挙句どちらかを選ぶことが出来ずにずるずる関係を続けるような人間にどうやっても共感できなかった、というだけの話である。
もちろん史実がそうである以上ロダンとカミーユを描くということはそういう関係を描くということであり、石丸さんはずるいけれど女が騙されてしまうロダンを、新妻さんは魅力的だけれどどこか不安定なカミーユを熱演していた。ただそれだけに、カミーユを表舞台に同伴しながらローズと別れず、カミーユの前でローズを軽んじた発言をするくせにカミーユがローズを悪く言うと激怒する、そういうロダンが腹立たしかった。かれと別れて自分を正等に評価してくれるブリュッセルという居場所を見つけたのに、ロダンの言葉にまんまと流されてフランスへ戻った挙句不平不満を繰り返すカミーユも、彼女の心情がありありと表現されているだけに見ていて苛立たしかった。
芸術家には結婚は不要だと言ったくせにローズと晩年結婚したロダンにも驚いたし、そこまで長くローズと連れ添ったのに最期にパリにいるほうの妻=カミーユに会いたいと言ったあたりにまた腹が立つ。クズだ…。

ということで最後まで胸のすくようなことのない物語であった。事実である以上仕方がないんだけど、ああ。
名声も富も手に入れ、自信満々だった壮年期のロダンは非常に魅力的。最初こそ噛み付くように自分の意見を主張するカミーユを面倒そうにあしらっているけれど、彼女の才能にかれはすぐ夢中になった。カミーユは自分の才能を確信している奔放で自己主張が強くて若い、見た目も生き方もまっすぐで美しい女だ。なんというか、こういう女が年上男を夢中にさせるんだな、という見本のような女だと思う。ロダンもまた、こういう男が若い女をその気にさせるんだ、という見本のような男。テンプレみたいな二人の恋は、結ばれるまでが一番良かった。カミーユがロダンのアトリエで自分の居場所を見つけて、だからこそ「ただいま」と言ったところが好き。
結ばれたあとは、社交界にカミーユを連れまわしたいロダンと一人で創作を続けたいカミーユ、ロダンがローズと別れて自分と結婚することを望むカミーユとローズと別れる気もカミーユを手離す気もないロダンのすれ違いばかりが続く。蜜月は短く、言い争いばかりが繰り返される。けれど二人がインスパイアされて作り出すものはどれも美しく、高い評価を受ける。

カミーユの弟・ポールに伊礼彼方。若い頃はカミーユ同様に夢に燃える青年であり、カミーユのパリ行きを応援してくれた。決して娘を認めない母親との間に入ってくれたことも数え切れない。ロダンのアトリエに誘われた日の夜は、二人で夜更かしして祝杯をあげた。気の強い姉と優しくて柔軟な弟の関係は良好だった。
しかしポールは変わり始める。演劇を止めて母の言いつけ通り学校を卒業したあと外交官になったかれは、年の離れたロダンと愛人関係にある姉が受け入れられない。ロダンとの子を堕胎したと知ると激怒し、神を深く信仰して懺悔することで救われると姉を説得する。そのときの曲「天使の園」がとてもいい。ワイルドホーンの曲って難解で、わたしの安い耳ではすぐに把握できない・覚えられないんだけれど、この曲はすぐに入ってきた感じがする。
しかしポールの変化には驚いた。大人になった、世間を知った、だけでは納得できない変化っぷりである。何があったの…。
最初は微笑ましい仲良し兄弟だった二人の関係が大人になって変化する。亀裂が入っただけなら分かるのだが、ポールがカミーユに向ける感情は家族の情だけに見えない。ふざけるのが好きだけど物凄く生真面目、という人物像は伊礼さんの中にある要素だと思うので、非常にしっくり来るポールだった。

終盤、孤独と貧しさの中で徐々に常軌を逸してゆくカミーユがすごく良かった。目だけを爛々と光らせて、幻覚や思い込みと現実の区別ができなくなってゆく。ポールから金を貰ったとき、これで大理石が買える、と言ったところが怖くて良かった。生活のためではなく創作のために、彼女は金を使う。彼女は生きる。
優しかった父を亡くした彼女は、そのことすら一週間経過してから知らされた。昔から彼女を理解しようとせず、「憎い」と言い放っていた母は彼女を精神病院に入れた。一度も見舞いにいかなかったというあたりも容赦がない。理解者であった弟は遠く離れた上海へ行き、彼女は完全に孤独だった。やりきれない。
ロダンはカミーユにかつて、黄金のありかを教えると言った。そしてそこで見つけた黄金はカミーユのものだ、と。彼女はひととき確かに黄金を見つけたのだと思う。けれどそれは彼女のもとに留まらなかった。もしくは、彼女が見つけた黄金は彼女にほしいものをくれなかった。

老いていくロダンの変化もよかった。髭が伸び、腰が曲がり、一層偏屈になっていく。カミーユと別れた直後にロダンが見た、地獄の門の幻覚のようなシーンが一番好きだった。

***

テレビ放送のあとは白井さん、石丸さん、新妻さんのトークもあり。白井さんや石丸さんがロダンとカミーユの作品を見にフランスまで行った話や、新妻さんがワイルドホーンに会った話などもある。
石丸さんと新妻さんが、「天使の園」を歌いたいと言っていたのが印象的。確かにいい曲でした。
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posted by: mngn1012 | 映像作品 | 20:59 | - | - |

「ブリューゲルの動く絵」

監督/脚本/撮影監督/音楽 : レフ・マイェフスキ
脚本 : マイケル・フランシス・ギブソン

ピーテル・ブリューゲル:ルトガー・ハウアー

***
ネタバレが嫌いである。
なので見たいと思ったものに関しては、自分が見るまでHPや記事などを極力見ないようにしている。この映画もそうだった。ピーテル・ブリューゲルの絵が結構好きなので、ブリューゲルの絵の世界に迷い込む、というキャッチコピーだけで見に行くことにした。
そうしたら処刑と磔刑の映画であった。

ブリューゲルが1564年に制作した「十字架を担うキリスト」という絵がある。大きなカンバスに、100名以上の人物が描かれている壮大な作品だ。この映画ではその絵に描かれている人物のうちの十数名に焦点を当て、かれらがこの場所で描かれているような行動を取るに至った経緯を物語る。
冒頭の僅かな会話のあと、30分ほど全く台詞のない状態が続く。作品に描かれている、当時のフランドル地方の生活が克明に描写される。粉ひき場で寝起きして、働く夫妻。大勢の子供にパンを切り分ける若い母親。恋人の女に何かとちょっかいを出す男。子供達の叫び声や水車の回る音、道行く男が吹き鳴らす楽器の音色とともに伝えられるかれらの生活は素朴だけれど鮮やかだ。なだらかな丘の上での食事、木を切る男たち、自然の中のかれらは生に満ちている。

しかしその幸福な姿は長くは続かない。恋人ないしは妻とともにいた男の周りを、馬に乗った赤い服の男たちが取り囲むと、かれらは一斉に男に暴力を加える。鞭、拳、蹴りで男が動かなくなるまで痛めつけると、男の体を鉄の輪に縛りつけ、そのまま空高く掲げて去っていく。どの段階で息絶えたのか定かではない男の血まみれの顔は、鴉のくちばしで啄ばまれる。
スペインが派遣した傭兵による、異教徒への処刑だ。一緒にいた女は泣くけれど、傭兵を止めることも、許しを乞うこともしない。傭兵が去ったあとも男が掲げられた「死の木」の傍で泣くばかりなのは、抵抗しない当時の庶民の在り方なのかもしれない。
男の処刑やまた別の女の生き埋めなどを挟みつつ、ベッドの周りではしゃぐ子供たちや、赤子に乳をやる母親などの情景が続く。そこに、家からスケッチブックを持って出てきた男が現れる。ブリューゲルだ。宗教異端者に対する暴挙に怒る友人・ヨンゲリンクにこの状況を表現できるかと問われたかれは、朝見た蜘蛛の巣に触発され、「十字架を担うキリスト」のスケッチに入る。中心にキリストを据え、その姿をシモンで半ば覆うようにする。向かって左には生命の木、向かって右には死の丘(ゴルゴダの丘)と死の木を配置し、執拗なほどに人々の生活を描き入れてゆく。これ以降、絵の中の物語にブリューゲルの解説が挟まれるようになる。

「十字架を担うキリスト」において、最も語られるべきは当然イエス・キリストだ。磔刑に処された我が子を嘆くマリアを、ブリューゲルは妻をモデルに描いた。身ごもった時から特別な存在になると確信していた息子の状況に、それでも母親は苦渋の表情を浮かべる。
最後の晩餐や足を洗うシーンのあと、茨の冠を被せられ、鞭で打たれて十字架を背負うイエスの受難が描かれる。イエスの顔は長い髪で覆われて一切映らない。ゴルゴダの丘についたイエスは杭を撃たれ、十字架に磔にされる。その様子を見守っていた人々は一人去り、二人去り、残ったのは見張りの役目の男たちと、マリアだ。

キリストの磔刑を、暗く淀んだ目で見ていた一人の男が無人の教会?に戻り、銀貨を床にたたきつけたところがクライマックスでした。ユダ!ユダ!
あとユダが首吊り自殺する場面の後ろにブリューゲルがいて、地面に散らばった自分のスケッチを拾っているところも印象的。こちらを向いているブリューゲルにユダが見えているのか、それともかれには見えておらず、ただスケッチを飛ばされないようにすることだけを考えているのか、定かではない。

ブリューゲルは、高い崖の上の風車小屋に住む粉ひきの男を神に見立てた。神は雲の切れ間から顔を出すものだからだ。高い場所から下界の様子を冷めた目で見ていた男が、そっと手を上げると、時間が止まる。何もかもが止まったように見えて、奥の方では普通に人が動いていたり、手前の傭兵の馬だけが尻尾をはためかせていたのには理由があるんだろうか。絶対者の気だるげな動作が世界を止め、そしてまた動かした。このシーンは圧巻だった。

不思議だったのは、処刑される人間の周りの人間の嘆きはあるのに、本人の苦しみが一向に描写されないことだ。生き埋めにあった女は抵抗の声をあげていたけれど、処刑された男もキリストも、同時に刑に処された二人の男も、苦悶の表情や声をみせない。それを描かれたらもっと見ていて辛かっただろうから、これくらい突き放して客観的なほうが良かったんだけれど。

このハウルじみた邦題が、まるでこの映画が明るくて楽しいものであるかのように思わせていたのだ、ということを実際に見終わって知った。原題「THE MILL AND THE CROSS」ならば非常に納得がいく。まあこのタイトルで警戒できたか、内容が察知できたかと言われればそれは難しいんだけど。
複数の有名な作品が紹介されて、それを実写で再現するようなファンタジックな映画を勝手に想像していたのがいけなかった。思い込み怖い。でもまあ思い込みがないと見に行かなかっただろうし、結果的には良かったということにしよう。
画面はとにかく綺麗で、ブリューゲルの絵を本当に再現しているような背景や衣装の色が美しかった。自然のもののような作り物のような空、雲、緑、衣装の赤や黄色、一コマ一コマのコントラストが凄かった。そういう意味では大きな画面で見る価値のある映画だったのかも。
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posted by: mngn1012 | 映像作品 | 21:26 | - | - |

井上ひさし追悼公演「黙阿弥オペラ」

「黙阿弥オペラ」
作:井上ひさし
演出:栗山民也

河竹新七:吉田鋼太郎
五郎蔵:藤原竜也
円八:大鷹明良
久次:松田洋治
及川孝之進:北村有起哉
おせん:内田慈
とら/おみつ:熊谷真実

元々藤原竜也・吉田鋼太郎・北村有起哉出演で「木の上の軍隊」という終戦後の沖縄の戦争話を書いていたものの、未完のまま亡くなった井上ひさし。その井上さんの追悼公演として、その三名参加で上演されたのが「黙阿弥オペラ」だった。予定が合わなくて行けなかったのだけど、テレビで放送されたので見た。

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深夜、老婆が営む蕎麦屋に二人の男が現れる。かれらは同じ時に同じところで川に身投げしようとしていたのだと言う。自分は死のうとするくせにお互いの自殺を止めようとした二人は老婆の仲介の元境遇を語り合い、一年後の同じ日に集まることを誓う。
スランプに陥っている狂言作家の河竹新七(のちの黙阿弥)と、貧乏で養子に出した娘を辛い目にあわせている五郎蔵。いかにも人の良さそうな新七と、人はいいが短絡的で感情的な五郎蔵。ハイテンションで畳み掛ける五郎蔵と、その上を行く語調の荒さとテンションのとら婆さんにあたふた振り回される新七。自殺の理由をたいしたことないと馬鹿にされてあわあわしている新七が可愛い。最初から最後まで、とにかく鋼太郎さん素晴らしかった!そして竜也は薄汚れているときでも目が爛々としてて野生のけもののようでいい。下品な役とか馬鹿な役のときの遠慮のなさは相変わらず。しかし年齢的にはおかしくないはずなんだけど、子持ちの役には見えないねえ…。

一年後。蕎麦屋には相変わらずのとらと、食い逃げのチャンスを狙う売れない噺家・円八、そして奥の部屋にでは先ほどとらが拾った捨て子・おせんが泣いている。そこへスランプから脱却した新七、現在投獄されている五郎蔵の使いで現れた弟分の久治、なくした金を久治が持っていることを突き止めて追いかけてきた浪人の孝之進。何かの縁と事情を話しあうかれらは、とらの提案のもと、おせんのための株仲間を結成する。
ここのドタバタっぷりも面白かった。「ケッコー!」と繰り返して蕎麦の味を褒めつつなんとか逃げようとしてとらに先回りされる円八とか、無骨でまぬけで単細胞な貧乏浪人孝之進とか、どいつもこいつも一筋縄ではいかない感じ。そんな輪に混ざりつつも、新七は少しひいたところで笑っている。

株仲間の集まりは続き、とらの腰は大分と曲がり、おせんは十七歳の娘になった。「株仲間のおじさん」たちはみんなこの血の繋がらない娘に甘い甘い。年頃の娘にデレデレの父親ばっかり。このあらゆるおじさんが自分一人に向いているって夢のようだな!
歌が歌えて蕎麦がうてるおせんは、万国博覧会のためにパリに同行するように柳川の宿のおかみさんに頼まれているという。既に行くことを決めた彼女は株仲間のおじさんたちにそれを打ち明ける。外国が今よりはるかに時間のかかる未知の世界だった時代だ、当然かれらは反対する。「箱根より西のことはわからん」とか「フランスの旗本」とかみんながめいめいに頓珍漢なことを言うのが可愛い。かれらを説得するおせんが口にした「ご恩送り」の思想がとてもいい。
株仲間の皆から受けた恩のおかげで今の自分がある、その自分が今度は他の誰かの役にたつ・他の誰かのために行動することは、受けた恩を誰かに送ることになる。受けた恩をとどめるのではなく、次へ送ってゆくこと。笑顔で語るおせんには愛情を沢山受けてきたもののまっすぐさがある。愛されたこと、愛されていることの自負が彼女を強くする。
「毎日晴天!」で、養子の勇太に対して義父の秀が、自分に何かを返すのではなくて、誰かを愛して大切にしてほしい、と言っていたのを思い出した。それが家族のかたちなのだ親と子のあり方なのだ、というようなことだったと思う。上の世代から受けたものは、下の世代へ伝えて・届けていくものだ。流れを止めずに、永遠に送ってゆかねばならない。

そして、ご一新。
帰国したおせんは芸者として働くも、現地で見たオペラに夢中だ。とらは既に亡く、蕎麦屋は出戻りの娘・おみつが切り盛りしている。
株仲間の集まりの日、かつてとは大分変わったかれらは自分の状況を語る。相変わらず好調の新七、車屋として独立した五郎蔵、大蔵省で働く孝之進、税金についての講話をしてまわる円八、印刷会社を始めた久治、皆が奇妙なくらい好調だ。しかしそこへ至るまでの経緯を聞いて、かれらは理由を知る。おせんを気に入ったものの彼女に振られてしまった大蔵省のとある官僚が、彼女の株仲間たちから好条件で金を貸す代わりに、おせん株を手にしていたのだ。自分以外のみなが同じことをしていると知らない株仲間たちは、おせん株の半分以上を大蔵省が所持していることを知る。
その男に言い寄られたおせんはその場を飛び出し、蕎麦屋へ帰ってきておみつに「オペラをやりたい」と言う。身投げされるよりはましだ、とおみつはおせんを送り出す。

このあたりのどこだったかな、お国の方針で演目に規制を入れられた新七の相棒「高島屋」が死んだことに気を落とす新七を励ますべく、他の男たちが皆ばかみたいに気を使うところが面白かった。新七がかれとの思い出を語ろうとすると皆で遮る。不器用な気遣いが微笑ましくて、新七の心は晴れる。
あと新七以外の連中が飲みに行った話を聞かせるのも可愛かった。きつねの尻尾を買っておいて、飲み屋の店員にさも自分達がきつねが化けた人間であるかのように思わせた、というやつ。

久々におせんが実家に帰ってくると、蕎麦屋は銀行になっている。五郎蔵、円八、久治・孝之進は乗り気で、おみつは暢気に構えていて、相変わらず和服の新七は複雑な顔をして隅に座っている。
横浜でオペラ歌手として活動しているおせんは、五郎蔵たちに招かれて帰ってきた。その理由は、五郎蔵たちが始める銀行に預金すると、河竹新七が作り、おせんが出演するオペラのチケットをプレゼントするというかれらの一方的な企画のためだ。しかしこれはかれらばかりの突飛なアイディアではない。どうやら欧米列強に並ぼうとする日本の、やんごとなきお方たちの総意のようなのだ。
自分の本がオペラに合うわけがないと軽くいなそうとする新七の言葉を最初に否定したのはおせんだった。外国で寂しくなると新七のせりふを繰り返していたという彼女がカルメンに合わせて歌う三人吉三の美しいこと!一幕でも皆が新七の前で「三人吉三」のせりふをめいめいに言ってたのでわたし歓喜。

驚いた新七はしかし決してオペラを書くことを承諾しない。普段温厚でひとにきつく言われても苦笑いをしている、初対面の男に頼まれても金を貸してしまうようなかれの姿からは想像できないくらい激しい拒絶だった。
友人の仕事のため、国のため、そんな言葉はかれには響かない。自分が書いたオペラを、本気で見たいと思う客がはたしているのか、ということが問題なのだ。自分が書いた芝居を見るために、残りの364日必死で節約して木戸銭を貯める人たちがいる。これを見たら死んでもいいと思えるような芝居を書きたい。古臭い、開けてないとうんざりした五郎蔵たちのリアクションにも新七は物怖じしない。かれが唯一譲れないものが芝居なのだ、と痛いほど伝わってくる。いい台詞だなあ。
それを聞いたおせんは「オペラはそれができないということですか」と言う。新七が真剣に芝居を愛しているように、彼女もまた真剣にオペラを愛している。オペラを仕事に利用しようとしている他の連中とは違う。その気持ちがわかる新七は、「まだ時期じゃない」というようなことを言う。オペラを愛する素地が出来ればいつか、オペラを本気で見たいと願う観客が出てくるかもしれない、と。
そして新七は蕎麦屋を出る。かれの背中を見送って「わからずや!」と暴言を吐く連中の中、おせんだけが椅子に座ったまま正面を見ている。瞳に涙をひとつぶだけ浮かべた彼女の、怒りと悔しさに満ちた顔つきがすごくいい。彼女は本気でオペラを愛しているものとして、時期尚早だと言われたのが本気で悔しかったのだろう。意志の強い瞳と口元がいい。

数年後、かれらの銀行は倒産する。銀行の看板がかかった蕎麦屋で失笑しているおみつは、株仲間の集まりに訪れた新七と一緒におせんの土産のオルゴールを開ける。そこには四人からの手紙があった。かれらが身投げして死ぬつもりだと悟った新七は慌てて店を飛び出す。
そしてかれと入れ違うように、死にきれなかった四人が蕎麦屋に現れる。
叱咤するおみつ、誰かの草履を見つけて慌てて帰ってきた新七の前でもかれらは今後の見通しが立たないことを嘆く。その流れを断ち切ったのはおみつだった。
自分がかつてとらから習ったように、蕎麦のうちかたを四人に教えると言う。そしておせんが帰ってくる一年後には一人前になっているように育ててやる、と宣言する。住むところも喰うものもないかれらはおみつの指導に従って蕎麦をうちはじめる。引退した新七は、人が集まるようないい宣伝文句を思案している。
そこに、赤子の泣き声が聞こえる。新七と五郎蔵が出会ったのも、一年後おせんが拾われたのもこの日だった。みんなは子供を拾い、株仲間を作って育ててやろうと決める。

カーテンコールがとても可愛かった。帰ってきたおせんにみんながここぞとばかりに蕎麦をたべさせてやる。皆でわいわい蕎麦をすすり、おみつは赤ん坊をあやしている。送られていく恩、送られて行く愛情、終わりのないもの。

4時間近い舞台だったけれどむちゃくちゃ面白かった。鋼太郎さんの抑えた中に優しさとか不器用さとか人一倍あついこだわりがある新七が凄く良かった。御恩送りの気持ち、芝居にかける物書きの気持ち、急速な変化についていくために置き去りにしてきたもの、色々なメッセージが押しつけがましくなく織り込まれていた。
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posted by: mngn1012 | 映像作品 | 20:46 | - | - |