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「ブリューゲルの動く絵」

監督/脚本/撮影監督/音楽 : レフ・マイェフスキ
脚本 : マイケル・フランシス・ギブソン

ピーテル・ブリューゲル:ルトガー・ハウアー

***
ネタバレが嫌いである。
なので見たいと思ったものに関しては、自分が見るまでHPや記事などを極力見ないようにしている。この映画もそうだった。ピーテル・ブリューゲルの絵が結構好きなので、ブリューゲルの絵の世界に迷い込む、というキャッチコピーだけで見に行くことにした。
そうしたら処刑と磔刑の映画であった。

ブリューゲルが1564年に制作した「十字架を担うキリスト」という絵がある。大きなカンバスに、100名以上の人物が描かれている壮大な作品だ。この映画ではその絵に描かれている人物のうちの十数名に焦点を当て、かれらがこの場所で描かれているような行動を取るに至った経緯を物語る。
冒頭の僅かな会話のあと、30分ほど全く台詞のない状態が続く。作品に描かれている、当時のフランドル地方の生活が克明に描写される。粉ひき場で寝起きして、働く夫妻。大勢の子供にパンを切り分ける若い母親。恋人の女に何かとちょっかいを出す男。子供達の叫び声や水車の回る音、道行く男が吹き鳴らす楽器の音色とともに伝えられるかれらの生活は素朴だけれど鮮やかだ。なだらかな丘の上での食事、木を切る男たち、自然の中のかれらは生に満ちている。

しかしその幸福な姿は長くは続かない。恋人ないしは妻とともにいた男の周りを、馬に乗った赤い服の男たちが取り囲むと、かれらは一斉に男に暴力を加える。鞭、拳、蹴りで男が動かなくなるまで痛めつけると、男の体を鉄の輪に縛りつけ、そのまま空高く掲げて去っていく。どの段階で息絶えたのか定かではない男の血まみれの顔は、鴉のくちばしで啄ばまれる。
スペインが派遣した傭兵による、異教徒への処刑だ。一緒にいた女は泣くけれど、傭兵を止めることも、許しを乞うこともしない。傭兵が去ったあとも男が掲げられた「死の木」の傍で泣くばかりなのは、抵抗しない当時の庶民の在り方なのかもしれない。
男の処刑やまた別の女の生き埋めなどを挟みつつ、ベッドの周りではしゃぐ子供たちや、赤子に乳をやる母親などの情景が続く。そこに、家からスケッチブックを持って出てきた男が現れる。ブリューゲルだ。宗教異端者に対する暴挙に怒る友人・ヨンゲリンクにこの状況を表現できるかと問われたかれは、朝見た蜘蛛の巣に触発され、「十字架を担うキリスト」のスケッチに入る。中心にキリストを据え、その姿をシモンで半ば覆うようにする。向かって左には生命の木、向かって右には死の丘(ゴルゴダの丘)と死の木を配置し、執拗なほどに人々の生活を描き入れてゆく。これ以降、絵の中の物語にブリューゲルの解説が挟まれるようになる。

「十字架を担うキリスト」において、最も語られるべきは当然イエス・キリストだ。磔刑に処された我が子を嘆くマリアを、ブリューゲルは妻をモデルに描いた。身ごもった時から特別な存在になると確信していた息子の状況に、それでも母親は苦渋の表情を浮かべる。
最後の晩餐や足を洗うシーンのあと、茨の冠を被せられ、鞭で打たれて十字架を背負うイエスの受難が描かれる。イエスの顔は長い髪で覆われて一切映らない。ゴルゴダの丘についたイエスは杭を撃たれ、十字架に磔にされる。その様子を見守っていた人々は一人去り、二人去り、残ったのは見張りの役目の男たちと、マリアだ。

キリストの磔刑を、暗く淀んだ目で見ていた一人の男が無人の教会?に戻り、銀貨を床にたたきつけたところがクライマックスでした。ユダ!ユダ!
あとユダが首吊り自殺する場面の後ろにブリューゲルがいて、地面に散らばった自分のスケッチを拾っているところも印象的。こちらを向いているブリューゲルにユダが見えているのか、それともかれには見えておらず、ただスケッチを飛ばされないようにすることだけを考えているのか、定かではない。

ブリューゲルは、高い崖の上の風車小屋に住む粉ひきの男を神に見立てた。神は雲の切れ間から顔を出すものだからだ。高い場所から下界の様子を冷めた目で見ていた男が、そっと手を上げると、時間が止まる。何もかもが止まったように見えて、奥の方では普通に人が動いていたり、手前の傭兵の馬だけが尻尾をはためかせていたのには理由があるんだろうか。絶対者の気だるげな動作が世界を止め、そしてまた動かした。このシーンは圧巻だった。

不思議だったのは、処刑される人間の周りの人間の嘆きはあるのに、本人の苦しみが一向に描写されないことだ。生き埋めにあった女は抵抗の声をあげていたけれど、処刑された男もキリストも、同時に刑に処された二人の男も、苦悶の表情や声をみせない。それを描かれたらもっと見ていて辛かっただろうから、これくらい突き放して客観的なほうが良かったんだけれど。

このハウルじみた邦題が、まるでこの映画が明るくて楽しいものであるかのように思わせていたのだ、ということを実際に見終わって知った。原題「THE MILL AND THE CROSS」ならば非常に納得がいく。まあこのタイトルで警戒できたか、内容が察知できたかと言われればそれは難しいんだけど。
複数の有名な作品が紹介されて、それを実写で再現するようなファンタジックな映画を勝手に想像していたのがいけなかった。思い込み怖い。でもまあ思い込みがないと見に行かなかっただろうし、結果的には良かったということにしよう。
画面はとにかく綺麗で、ブリューゲルの絵を本当に再現しているような背景や衣装の色が美しかった。自然のもののような作り物のような空、雲、緑、衣装の赤や黄色、一コマ一コマのコントラストが凄かった。そういう意味では大きな画面で見る価値のある映画だったのかも。
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posted by: mngn1012 | 映像作品 | 21:26 | - | - |

高遠琉加「こいのうた」

高遠琉加「こいのうた」
居心地の悪い家に帰りたくない八尋は、放課後時間を潰すために入った教室で寝過ごしてしまう。慌てて起きた八尋は、英語教師の狩谷が一人でピアノを弾きながら歌っているところに出くわす。事情を知った狩谷は、放課後や夏休みの時間を持て余す事がないように、八尋に協力してくれる。

高校二年の八尋にとって、随分前から不仲の両親が父の浮気をネタに連日大喧嘩をしている家は最悪の場所だった。部活に入っていない八尋は放課後、人気のない教室で下校時刻ぎりぎりまで時間を潰すことを日課にしていた。その日も、かれにとってはよくあるそういう日のはずだった。教室で眠ってしまった八尋が眼を覚ますと、既に下校時刻は過ぎており、学校は消灯されていた。見回りの教師が、ちょうど死角で眠っていた八尋を見落としたのだろう。慌てた八尋が帰ろうとすると、ピアノの音が聞こえてくる。そしてかれは、生徒に人気のある若い英語教師・狩谷がひとりで弾き語っているところを見てしまう。特に語られていないけれど、音楽教師ではない若い男性、おそらくピアノが弾けるという話題も特に出ていない男性がピアノを弾いている姿を生で見るのは結構珍しいだろう。しかも流暢な英語の歌を歌っている上、見られたことに対して驚きはしたものの、狩谷に気まずさや羞恥はなさそうだ。そのあっさりした感じもあって、八尋にとってこの狩谷の姿は非常に印象的なものとして、あとあとまで残る。
見回りにきた口うるさい教師からとっさに機転を利かせて庇ってくれた狩谷に車で送ってもらった八尋は、家に入ろうとして、喧嘩の声を聞いてしまう。家の前には狩谷がいるのに、おそらくかれは教師や大人としての責任感から家に入るところを確認して帰ろうとしているのに、八尋は踏み切れない。そして狩谷は色々なことを察知して、八尋を車に乗せた。
そして八尋が今まで誰にも言えなかった家庭の事情を話すと、狩谷は八尋が遅くまで学校にいられる嘘を考え、母親に電話で伝えてくれた。子供に悪影響だから喧嘩をしないように(見せないように)指導するようなことはしない。その選択が教師として正しいのかはさておき、八尋にとっては救いになった。

平日の放課後だけでなく学校に行かない夏休みの間も、狩谷は八尋に逃げ場を与えてくれた。狩谷の友人の家が経営している店でアルバイトをすることになった八尋は、しばしば訪ねてくる狩谷やバイト先の人と話すうち、これまでになかった感情を抱くようになる。経営者の跡継ぎで狩谷の友人である柳下や、アルバイトの女子大生が狩谷と親しく話す様子に不快感や焦燥感を覚える。そこに友情だけではないものがあるのを察知すればなおさら、自分でもコントロールできない苛立ちが生まれる。
その感情の原因が何なのか知る前に、八尋は狩谷や柳本の過去に抵触してしまう。病気によるものだと言われている狩谷の白髪、好意を持たれることに対する狩谷の恐怖、クラスの女子が言っていた音楽室の幽霊の噂、八尋のバイト先に来た眼鏡の男の狩谷への不気味な態度。それらは全て、狩谷の過去にまつわるものだった。
物語の間に差し込まれていたエピソードと、過去を知る柳本の言葉、常軌を逸しかけている眼鏡の男・利伸の言葉と、あまり多くを語らない当事者・狩谷の言葉で語られる過去は重い。両親から向けられる期待に押し潰されかけて転向してきた少年は、狩谷と柳本と友人になった。親と離れて暮らしても回復しなかった少年・利樹の心は次第に闇を深くし、最初に気付いた狩谷をも飲み込もうとした。
音楽室から身を投げた利樹の死によって、兄を慕う利伸はその場にいた狩谷を憎む復讐鬼となり、目の前で友人を亡くした狩谷はショックで髪の色を失った。のみならず、強い好意を恐れるようになった。

この件でタクミくんシリーズの「季節外れのカイダン」を思い出したのはわたしだけだろうか…夜の学校での哀しい落下事故。前者は片思いで後者は両思いだったけれど、亡くなった生徒の弟が数年後に同じシチュエーションを作り出して復讐しようとするあたりも近いものがある。哀しい事件を乗り越えた後者に比べて、前者の当事者である狩谷はこのあとも長く、おそらく一生、この夜を引きずっていくことになる。
既視感はあったものの、この利樹のエピソードは凄く好きだ。両思いだったけれど一緒に行くことができなかったとか、両思いだったからこそ利樹が狩谷を庇ったというのならばまだいい。狩谷は利樹を友人として好きだったけれど、他の友人と比べて一人抜きん出ていることも、友情以上の気持ちを抱いていることもなかった。けれどかれはそのとき確かに、利樹と一緒に死んでやろうと思ったのだ。
そのことをおそらく利樹は気付いていただろう。気付いていて、だからこそ狩谷を道連れにしなかった。救われない情が切なくていい。

自分が狩谷に抱く気持ちをはっきり自覚する前に事件が起こり、狩谷は教師を辞職することになる。最終日を迎えた狩谷に八尋は「好き」と言ったけれど、発展性のない「好き」だった。それだけに何も奪わない、何も求めない、何も強いないまっすぐきれいな「好き」だった。この時八尋が狩谷にあげられるものはそれしかなかった。

そして七年後。母と再婚相手の間に出来た異父弟の友人が通っている英語教室で、八尋は狩谷と再会する。
七年後のエピソードを描いた話の冒頭に書かれた、「恋とはそれしか選択肢がないことだ」という言葉が凄くいい。何かと合コンに誘ってくる先輩をかわしながら、八尋はそんな風に思っている。セッティングされた数名から品定めして選ぶようなものじゃない、と。
そのかれの持論はすぐに証明される。七年ぶりに狩谷に会って目を合わせた瞬間、かれはどうしようもない勢いで恋に落ちた。
そこからはもう、若さと勢いで公私ともに使える術を全て使って、押すのみ。

本気の恋や好意に相変わらず怯えている狩谷に少しずつ距離を詰めていった八尋は、狩谷のために死んだりできないけど好きだ、と言う。狩谷を庇って怪我をしたばかりの八尋が言うその言葉は、笑い飛ばせない強さと真摯さを持っている。
狩谷にとって必要なものは、こういう押しの強さ、拒んでも避けても諦めない積極的な押しだったのだろうと思う。柳本は狩谷を思うあまり、かれの望む重くない関係を与えた。かれが苦しまないように、かれが追い詰められないように、気楽な体だけの関係を友情に追加した。それはひと時確かに狩谷を癒しただろうけれど、利樹の一件で出来上がった価値観を変えることはできなかった。
事件当時の狩谷を知らない八尋だからこそ出せた強引さだったのかもしれない。狩谷の家の前で何度か見た女に話しかける、事情を聞く八尋の強引さが止まったままの狩谷の時間を動かした。

タイトルになっている「こいのうた」は、狩谷がピアノを弾きながら歌っているところを八尋が聞いた歌のことだ。映画「バクダッド・カフェ」の主題歌である「Calling You」を、狩谷は眠っているときに呟いていたこともあった。最初に狩谷が歌っているのを聴いて惹き付けられた八尋も、特に印象的なサビの歌詞を何度も呟くようになる。
狩谷は利樹のことが好きだった。それはかれが柳本に向けていたものと変わらない、深い友情だった。利樹の気持ちはそこで留まらなかったけれど、狩谷は利樹に恋心を抱けなかったし、それ以外の相手に対してもいまひとつ恋や愛というものを抱けず、理解できずに生きてきたきらいがある。寧ろ理解できないうちに利樹の一件があったので、身を持って理解する機会を失ったままだったとも言えるが。
そういうかれが歌い続けた「Calling You」は「こいのうた」なんだろうか。聞こえるか、ともう会えない友人に向かって歌い続ける男の歌を「こいのうた」と呼ぶ残酷さが好き。
あとがき見たら仮タイトルが採用されたらしいので、そこまで深い意味はないのかもしれないけれど。
ドラマティックなんだけど地に足がついていて、どんよりしていて面白かった。
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posted by: mngn1012 | 本の感想(BL・やおい・百合) | 20:18 | - | - |

荒川弘「百姓貴族」2

荒川弘「百姓貴族」2
農家の仕事の忙しさと過酷さ、その中で育った知識や精神の強さ、そして1巻で語られた「農家の常識は社会の非常識」を証明するようなオモシロトンデモエピソードと、それを笑い飛ばせる明るさ。そういったものが作者の中に満ちている。そういう人格が形成されるには、よく働き無謀なまねをして生き残ってきた父と、よく働き子供たちもよく働かせる母のような身近な大人たちだけでなく、そして先人たちによる苦労だらけの開拓史を授業に取り入れる学校教育も必要なのだろう。何度失敗しても、家族が止めても挑戦し続けた先人の意志とその結果生まれたものが、かれら「百姓」の背中を押す。

あまりこの手のことを話す印象がない荒川さんだけれど、今回はちらほら夫や子供の話が出てきた。散々動物の受精や交尾や出産などを見てきた彼女にとっては自分の出産も手順の確認のようだったというのに笑った。数年前に雑誌インタビューで出産したことを明かした後、妊娠・出産を経験しているにも関わらず連載をまったく止めていなかったことや特に軽減している様子のない仕事量が話題になっていたけれど、今回このくだりを読んで納得した。

基本的にはオモシロエピソードや、農家で育たないとなかなか知ることができないトンデモトリビアで構成されているエッセイなんだけれど、ところどころに憤りや怒りや呆れ、皮肉も込められている。全体の収穫における規格外品の割合についてのエピソードが代表的。イモ畑を区割りしてオーナー制を設け、そこで収穫されたイモを送付するというビジネスを始めた農家があった。収穫のあと、形やサイズの整っていない規格外品を含んだイモを送付したところ、オーナーからのクレームが殺到し、農家はオーナー制を辞めてしまった。
両者に問題があった。農家ではないオーナーたちは、畑から獲れるイモの殆どがスーパーで販売されているような美品なのだと思っていた。農家たちは、畑から獲れるイモの多くが美品ではないことをオーナーたちが知っていると思っていた。荒川弘の良いところは、オーナーたちが知らなかったことを頭ごなしに否定したりはしない。普段イモ畑を見ることなどないであろうオーナーたちの立場に立って、事情を考えることができる。自分ではなく、農家についてよく知らない編集者に「丹精込めて作ったのに(中略)悲しいですね」とちいさく非難させた上で、その農家を含めた「われわれ(百姓)」の説明が足りなかったことを認識し、反省する。そのあとは規格外品をマンガのボツになぞらえた自虐風のオチで一端話を閉じる。誰も直接責めないまま、どちらが悪いのではなくお互いに歩み寄りが足りなかったのだと言うニュアンスで話を終わらせつつ、「規格外品が出るのが普通だ」というメッセージを滲ませている。
更に規格外品の仕分けの様子を見れば細かい形になどこだわらなくなるというような話と、農家でしか食べられない規格外品って実は美味しいんだよ魅力的なんだよ、という微笑ましい自慢も付け加えてくる。
事を荒立てずに穏やかに話を結びつつも、作者のメッセージには首尾一貫した農家への愛情、農作物への愛情がある。作者はどこまで行っても農家側にいるし、それを崩すつもりもないだろう。オーナー陣への多少の憤りをうまく分散させ、ちくりと皮肉の針を刺す。けれど後味は悪くない。さすがに巧いなあ。

大人気お父さんはやっぱりすごい。結果オーライなだけで一歩間違えたら大変なことになっていたんじゃないのか、というエピソードが出てくる出てくる。そういう根拠のない無茶苦茶なところと、ものすごく理にかなった無茶苦茶なところがある。ムードとかロマンじゃ仕事は進まない。それは農家だって同じだろう。だから牛の角を切るし、害鳥は駆除する。矛盾しているようでまったく矛盾していないまっすぐな行動がいい。
荒川さんにせよこの漫画に出てくる他の農家の人たちにせよ、皆健全で屈強な肉体と精神を持っていて、その上で確固たる意志と信念を抱いて生きている姿がまぶしい。だからこそ人知を超えたところにある天災と戦い、ころころかわる政策に振り回されてもなお信念を通すことができるのだろう。
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posted by: mngn1012 | 本の感想 | 21:42 | - | - |

ミュージカル「ハムレット」@シアタードラマシティ 12時公演

原作:ウィリアム・シェイクスピア
脚本・作曲・作詞:ヤネック・レデツキー
演出:栗山民也

ハムレット:井上芳雄
オフィーリア:昆夏美
レアティーズ:伊礼彼方
ホレーショー:成河
旅芸人/亡霊:阿部裕
ポローニアス:山路和弘
ガートルード:涼風真世
クローディアス:村井國夫

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チェコで生まれたミュージカル「ハムレット」の日本初演。
20分休憩を挟んで2時間強の舞台なので、非常に原作が端折られているというかダイジェスト的な勢いで描かれている。原作をある程度知っていれば問題ないけれど、まったく知らないとところどころ意味不明かもしれない。わたしは話の筋は知っているけれど戯曲を読んだわけではないので、まあ取り敢えず困りはしなかった、という感じ。原作と比較してどうこう言えるほど詳しくはない。
成河さんがパンフレットの対談の中で、「省略されても理解できる部分が欧米と日本ではやっぱり違うから、そこを埋めるのが課題」と言っていたのが一番真実を突いていたと思う。見ていた人の予備知識がどうだったのかは分からないけれど、端折られた部分の補填が出来ていたと明言は出来ない舞台だった。ただそれを差し引いても、シーンごとの勢いや情熱や繊細な心情とそれを表現する歌は魅力的だった。
ひとつ言いたいのはパンフレットもHPの扮装写真もハムレット長髪なのに、芝居は短髪だった、ということだよ…べつにいいけどさ!ずるずるした髪が好きなんですよ!

王である父の死後ひと月ほどで王妃が夫の弟であったクローディアスと再婚したことに、王子ハムレットは嘆いていた。かれの救いは恋するオフィーリアの慰めだけ。しかしハムレットはある夜父の亡霊からクローディアスに毒殺されたのだと聞かされ、その話が真実かどうかを確認する機会を待つ。
旅芸人たちと出会ったハムレットはかれらの芝居の脚本を改定し、クローディアスたちの前で演じる芝居に、王さまが毒殺されるシーンを追加させる。それを見たクローディアスの動揺する様子によって、かれは父が実弟に殺されたのだと確信する。
復讐の機会を待ちわびるハムレットを、人々は狂ったのだと考えていた。王の臣下であるポローニアスは、王妃ガートルードにハムレットの様子を報告する。ちょうどハムレットが母の元を訪れたとき、かれは床の絨毯の下に隠れていた。そこにポローニアスがいるとも知らず、ハムレットは絨毯の上にナイフを突きたててしまい、ポローニアスは亡くなる。
父の死を知ったオフィーリアは発狂し、父の殺害を知って遠方から駆けつけた兄・レアティーズの前で自殺する。その原因を父を殺害したハムレットに見たレアティーズは、真実を知ったハムレットを疎ましく感じるクローディアスと結託してハムレットを殺害することに決める。
しかしクローディアスがハムレット殺害のために用意した毒入りの杯をガートルードが飲み干して死亡し、レアティーズに毒の塗られた刀で傷をつけられたハムレットはかれを殺したのちクローディアスを殺して息絶える。全てを見届けていたホレイショーは、ハムレットの亡きがらにデンマーク国旗をかけてやる。すべて、沈黙。

****
「ハムレット」に欠かせない台詞である「尼寺へ行け」と「to be or not to
be」も出てきた。しかしオフィーリアはハムレットと結ばれたあと、父の死の真相を知ったかれにいきなり「尼寺へ行け」と言われることになるので、何がなんやらという感じ。「to
be〜」は歌にもなっていたけれど、取り敢えず出した、という感じがしないでもなかった。削るわけにはいかないんだろうけれど、もうちょっと効果的にならなかったのかしら。この辺はもっと原作を熟知していたら面白いのかも。

真相を突き止めるために狂人のふりをするハムレットだけれど、この舞台ではふりをしているのか本当に少しずつ狂っているのか分からなかった。その分からなさ、芝居なのか現実なのか区別がつかなくなっていくところが凄く好き。さっきまでがなってわめいていた男が、いきなり今にも壊れそうな儚い声を出したり、非常に賢明な発案をしたりする。その不安定さこそが、かれが演じている狂気よりもよっぽど狂気に近いように思える。井上さんの緩急と、細々としているのに意志のある歌が良かった。良いだろうなあと思って行ったら良かった、というのがデフォルト。ファルセットとか高音とか激昂とか全部いいですよ。父殺しの犯人を見つけるための罠を張っているかと思えば、その実行の瞬間にオフィーリアの膝に頭を乗せて甘えてみたりする、どこまでも食えない男っぷりも出ていた。
一幕のオフィーリアは、ハムレットからもらった恋の手紙に喜んだり、遠方に旅立つ兄との別れを惜しんだりするまっすぐ純粋な少女だ。だからこそ兄にしてみれば何よりも大切な存在だし、父にしてもハムレットとの恋など長続きするはずがなくいつか娘が傷つくことになると心配してしまう。小さな体いっぱいに幸福や喜怒哀楽を示す少女。レアティーズとの別れの曲「妹」がとてもよかった。一幕も十分良かったんだけれど、二幕はもっと良かった。
ハムレットは誤って殺してしまったポローニアスの死体を、絨毯に乗せてそのまま引きずって追いやってしまう。そのことについてかれはあまり後悔も焦りも大きくないように見える。しかしそこへ、絨毯の箸を握りしめて引きずり出してくる姿がある。オフィーリアだ。彼女はステージの下手寄りの中央に立ち、ただ、呻くような声をあげる。この声が凄くて鳥肌が立った。後になって分かるのだけれど、この声は、少女が正気を捨てた瞬間の声だったのだ。
父を殺されて混乱するレアティーズは、ぼさぼさのままの髪に、長めのシャツ一枚で歩き回る妹の姿を見る。狂気の淵へ落ちたオフィーリアは楽しそうに歌いながら、どこかで摘んできたと思われる花をガートルード、クローディアス、そしてレアティーズに分け与え、そのまま階段を上って塔の一番上から飛び降りた。くるくる回りながらまるっきり子供の笑顔を浮かべるオフィーリアは幸せそうだ。けれど彼女は飛び降りた。幸せではなかった。この短いシーンがあまりにも印象的。昆夏美ちゃんは「ロミオ&ジュリエット」でも魅力的なジュリエットを演じていたけれど、このオフィーリアは本当に度肝を抜かれた。

妹を溺愛していたレアティーズは当然衝撃を受け、ハムレットを憎むようになる。墓地で妹の亡骸を葬る時の悲しみと愛情に満ちたシーンが切なくて好き。クローディアスのそそのかすままにハムレットとの決闘を始めるかれは、常に感情に支配されている。妹への愛情、父への愛情、それゆえのハムレットへの憎しみ。そうなる帰結も心情も分かりやすくて、それだけにやるせない。こういう直情的な役は案外伊礼さんでは珍しいんだけど、合っていると思った。殺陣も良かったし、なにより絶命するシーンがきれいで好き。
妹に対して家族の親愛以上のものがあったようにも見えたけど穿ちすぎかしら。

苦悩するハムレットに序盤からずっと「そういうもんです」と繰り返し忠告し、かれを慰め宥めてきた親友のホレーショーに成河さん。ストレートプレイでは見たことがあったんだけれど、ミュージカル初舞台だとは思わなかった。声の通りがいいのでこれからミュージカルにも出てほしいなー。
全ての傍観者であったホレーショーは、どんどん死人ばかりが増えて行く決闘でも、どうすることもできなかった。ただ全てが終わったあと、復讐を果たして絶命したハムレットの傍に行き、うつぶせに倒れるかれにそっと国旗をかけてやった。「おやすみなさい、殿下」という最後の言葉の声音がとっても優しくて、哀しみとか労りとか安堵とかがないまぜになっていてとても良かった。墓地でハムレットと墓掘り人と三人で楽しそうにはしゃいだり、旅芸人が来たときに盛り上がったりしていたかれは、友人の最期をどう感じていたのか。その複雑な心情が複雑なまま現れた一言だと思った。ハムレットって王子様っぽくないので、最後にきての「殿下」っていう呼び方もいいなあ。

夫の死後一カ月で再婚したゆえに「弱きもの、汝の名は女」と息子に言われたガートルードを涼風さん。背中ががばっと開いたボルドーのドレスの似合うこと似合うこと。ガートルードは自分が弱くて駄目な女だと知っている。一人で生きられない、宝を守ることもできない女だと分かっている。それでもどうすることもできず夫の弟と再婚し、夫がハムレットに態度を変えていくことを苦々しく思いつつも抗議できない。
そんな彼女が最後に命掛けの行動に出た。夫の毒杯をそうと知っていてあおったのは、彼女のなけなしの、最初で最後の女心に勝った母心だったのだろう。ハムレットに責められて倒れたままうなだれているところが好きだった。

コミカルなポローニアスのキャラクターや、ダジャレを強引に混ぜてくる墓掘り人、派手で陽気な旅芸人などを交えつつも、基本的には破滅に向かってひた走る物語。終始葛藤して鬱々としていたハムレットの複雑な感情とともに描かれるドラマ。もっと長時間で見てみたかったけれど、面白かった。
レアティーズが旅立つときにオフィーリアと二人で歌った「妹」を、オフィーリア亡きあとレアティーズが一人でリプライズで歌ったり(「妹2」)、ハムレットと結ばれるときに二人で歌った「この世界を越えて」と、自殺するときにオフィーリアが一人で歌ったり(「この世界を越えて2」)するような残酷さもたまらない。
暗い話が好き!

カテコは井上さんの挨拶。チェコのミュージカルの日本初演、東京のクリエでやったあと大阪に来た、四日しかないけれど楽しんで、二時間ほどの舞台だけれど長さじゃなくて濃度が大切だと思っている、命がけでやっている、などなど。あと村井さんは二時間くらいがちょうどいいそうです、とも言ってた。村井さんは親指立ててその通り、というお返事。
「2時間ほどの舞台なんですが」と井上さんが言ったときにすかさず伊礼さんが「休憩を入れても2時間ちょっとだからね!」と突っ込んでいた。伊礼彼方の、取り敢えず隙があれば口を挟もうとしている態勢、が好きだよ…。
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posted by: mngn1012 | ライヴ・舞台など | 22:17 | - | - |

エリザベート翻弄記

既にチケ発も色々始まっており、連敗中で打ちひしがれております。2010のチケ運の良さが異常だったのだと思えば耐えられるけど。

2/6頃、中日劇場、博多座、梅田芸術劇場のキャストスケジュール発表。
各地方とも帝劇同様に山口さんの登板が多め。集客力からみても納得なのだが、厳しい五ヶ月公演、最年長トートなので無理のないスケジュールでやってほしいところ。勿論他の人も怪我なく病気なく走り抜けてほしいものです。

2/13、帝劇分の子ルドスケジュール発表。
子ルドスケが出るとは思わなかった。チケ取りの参考にはしないけれど、目当ての子とかかぶらないようにみたいと思う方にはいいのでは。情報は少しでも多いほうがいいです。

2/14、山口さん・石丸さん・高嶋さんのコメント動画がHPにアップされる。
「チャーミングなカップルが私生活でもチャーミングなカップルになる」ってものすごい地雷じゃないですかね祐さま!石丸さんはまたつけ爪ネタあり。身振り手振りもつけてにこにこ楽しそうに話すのがいい。
高嶋さんのルキーニには色々と思うところがあるんだけれど、この人の会見やこういう場での感想というかエリザについての意見はとても好きだ。会見の時と重なるけれど、エリザの魅力について「コスプレ」「(日本では)味わうことのできない状況」という話をしていたのに納得する。あと「楽しい歌詞が一曲もない」と言ってたのも納得。そうなんですよそこが好きなんですよ!(単体で聞けば「あなたが傍にいれば」とか「私だけに」あたりは前向きなんだけれど、その結果を思うと明るくはない)

2/16、ウィーン版「エリザベート」のガラコンが開催されると発表。
出演はマヤ・ハクフォート、マテ・カマラス、ルカス・ペルマンがすでに発表されている。マヤさんのシシィ!ウィーン版はミュージカルをDVDで見ただけなので、生で見られるのはガラコンだとしても嬉しいなー。20周年ばんざい!!!

2/23、HPにまたもやカウントダウン表記が出る。
2/24、11時に扮装写真とマテ&三人のルドルフのコメント動画、プロモーション動画の第二弾が公開される。
扮装写真、二人のシシィと三人のトートのものの背景が赤い薔薇でちょっと笑った。山口さんと石丸さんは衣装も概ね前回と同じかな。扮装したマテはさすがにゴージャス。もとの彫りが深いのでメイクしてもあまり印象が変わらないのがすごい。瀬奈さんは2010同様のネイビーのドレスで、春野さんが白一色のドレス。瀬奈さんの写真は前回のポスターより今回のほうが好きだ。春野さんの二の腕が目を疑うほど細い…!
もう一枚の扮装写真は三人のルドルフとルキーニ、それに「逃れられない、運命。」というキャッチ。背景の青い薔薇は、シシィ&トート組の赤との対比やルドルフの水色の衣装との兼ね合いという意味もあるんだろうけれど、「不可能」「叶わぬ願い」の代名詞であった青い薔薇がこの不遇の皇太子の後ろに割いているのは皮肉でたまらない。ルキーニも、本人は楽しそうだけれど不遇といえば不遇だし。大野くんは鬱屈とした感じの表情で軍服も似合うなあ。平方くんはこの写真だけ見るとしっかりしてそう。結構髪色暗いけどこのままいくのかな?古川ルドルフはメンタル弱そうな眼差しごちそうさまです。皇太子然としていらっしゃるね…!

マテのコメントは会見の内容と殆ど同じだけれど宝塚版についての言及が面白かった。扮装写真撮影中の映像が見られるんだけど、衣装の裏地が赤いのいいよ!三人のルドルフもそれぞれ撮影風景映像あり。大野くんが浦井くんの衣装を試着したという話題があって面白かった。平方くんはまじめでそつのないコメントの中にやる気とかやってやろうという気概が滲んでて楽しい。大野くんも平方くんも水色が難しいって言っていた。確かにあそこまで濃厚な水色ってそうそうないというか、一般的に着る服ではないもんね。
古川のインタビューの母親=シシィとの関係性を聞いて古川ルドルフへの楽しみ度が増した。というかなんかやっぱりこう古川ルドルフってすごく楽しみっていうか緊張するっていうか特別っていうか、ねえ。だって古川雄大ですよ!
採用されなかった写真も一挙に出してくれないかしら。写真でも写真集でも買うわよ!

第二弾PVの山口トートの「最後のダンス」はあれでも本人比ではおとなしめだとおもいます。

***
「グレーテルのかまど」のシシィの愛したザッハトルテ特集面白かった!
あとNHKアーカイブスで2/6から五日連続で再放送していた「ヨーロッパ王家の物語」も面白かった。最初の三日間がハプスブルクの特集で、二日目の「ハプスブルク帝国 第二回 マリアテレジア」ではホーフブルクに住んでいるリーヴァイさんが登場していた。NHKだからなのかはっきりした作品名は出なかったけれどエリザの話題もちょこっと出ていた。「M!」のポスターが部屋に貼ってあったり、ピアノで「マリー・アントワネット」の曲を披露していた。
三日目の「ハプスブルク帝国 第三回 美しく青きドナウ」がフランツ・ヨーゼフメイン。こっちも凄い面白かったーというか五日間とも面白かった。NHKオンデマンドでも210円で見られるよーまわしものじゃないよ。

地に足がつかない浮かれっぷり。

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かわい有美子「月一滴」

かわい有美子「月一滴」
ホテルのドアマンとして働いている橋本は、行きつけのゲイバーで厄介な男に絡まれている。彼氏面で上からものを言ってくるその男・飯島の執着が暴力に繋がったときに助けてくれたことがきっかけで、橋本は同じバーに通う嵯上と親しくなる。

「上海金魚」「透過性恋愛装置」に続くシリーズ。これだけ読んでも問題はないけれど、可能なら「透過性恋愛装置」は読んでおいたほうがいいと思う。
というかわたしが「上海金魚」を読んでいない。「透過性〜」が話題になっていたときにそれだけ買って読んだままだったことを、今回思い出した。

ドアマンに憧れて田舎から出てきた橋本は、転職してようやく希望していたオテル・ド・エンピールに勤めることができた。仕事はやりがいがあるし、人間関係は良好だし、憧れの牧田という上司もいる。しかしそんな仕事状況とは裏腹に、かれのプライベートはなかなかうまくいかない。恋愛では高圧的なたちの悪い男に絡まれやすいうえ、かつて騙されて撮影された上に発売されたAVがあるために、男遊びの激しいだらしない奴だと思われやすいのだ。いきつけのバーのママなどは理解してくれているけれど、未だに多くの人間の誤解やからかいを逃れられずにいる。
今もっともたちが悪いのが飯島という男だ。例に漏れずAVを見たという飯島は人前でもその話をするし、なにかと橋本を馬鹿にしたことばかり言ってくる。そのくせ何度も飲みに誘い、まるで付き合っているかのような態度で接してくる。温厚で人に対してつよく出られない橋本は、飯島に伝わるような強さで拒むことも不快感を示すこともできず、結果的にかれを増長させるばかりだ。その上、どんどん彼氏面をしてくる飯島にさすがに焦りと怒りを抱いた橋本が示した拒絶がかれを煽る。酒の所為もあってか公衆の面前で殴られたのだ。
顔に怪我をして血を流す橋本を助けたのは、同じバーに通う嵯上だった。特定の相手をつくらない嵯上はかつて橋本にも声をかけたけれど、うまく遊ぶこともきれいに交わすこともできない不器用な橋本は、それを誠実に断っていた。その後もバーで顔を合わせれば話したり話さなかったりする、そんな程度の、言ってしまえば顔見知りというだけの仲だった。偶然橋本は職場を知られたけれど、だからといって何ということもない、そういう間柄だった。

嵯上が助けてくれた一件が二人の関係を大きく変えた、ということもない。今までの会話で少しずつ知っていった人柄と、この事件とその後のそれぞれの対応、そしてその後も続く会話がかれらの距離を縮めた。いっそくとびに変化することがない、決定的なきっかけのない恋だった。
橋本の真面目な仕事っぷりや酒が入った時にこぼれる本音に嵯上は興味と好感を抱き、ストーカー化しはじめた飯島に対する断固とした態度や自棄になった自分を窘める嵯上の考えに橋本は惹かれていった。そのじわじわ進んでいく感じは二人の性格や年齢にふさわしい。
ただ、飯島の件は大きなもめごとに発展しないのできっちり解決したとも言い切れないまま流れてしまってしこりが残るかな。嵯上の対応も良かったし、今後もなんとかなるかなーくらいのレベル。あと橋本のイメージを大きく変えたAVの件に関しても、取り立てて言及されない。今更回収することは不可能だし、たちの悪い連中に介入して復讐するようなことも無理だしそもそも物語の根幹が変化する。ただ、再三話題に出る割には橋本がそこまでそれを引きずっていないので、多少違和感というかズレがあったかも。いくらある程度性格がわかってるとは言え嵯上の家に誘われてすぐ行くあたり、根本的にはタフだな橋本。そういう性格だからこそ嵯上のようなしっかりした相手じゃないと駄目なんだろう。

全体的にはおとなしいというか地味な話だった。地味な中にもドラマがあるんだけれど、そのドラマが開花しきらずに種のままで終わったり、ちょっと葉が出て終わったり。ただそれが不足や未熟というばかりでもなく、どうもドラマティックになりきれない二人の性格には合っていると思った。かと言って全く不足を感じないかといわれるとそうでもないかな。伏線を敢えて消化していなくて魅力的なところと、消化してほしかったけれどしてもらえなくて残念なところがあった。

自他共に認める地味で平凡な橋本と、ハイスペックな筈なのに負けず劣らず地味な印象の拭えない嵯上に比べて、「透過性恋愛装置」組の派手なこと派手なこと。橋本の憧れの上司である牧田と、牧田に会うためにエンピールに毎日通ったり、牧田に好意を寄せるあらゆる人間に牙をむく北嶋がものすごく幅を利かせてくる。見た目が派手ならやることも派手だし、発言もいちいち目立つし、北嶋は華がある。牧田は落ち着いた人間なんだけれど、橋本ビジョンを通すことでパーフェクトな男として描かれるのでこれまた目立つ。
正直橋本と嵯上の関係が変化していく経緯にそれほど関わっていないし、寧ろ橋本に粘着気味だった飯島の存在の方が影響しているんだけれど、この二人はやけに何度も話に出てくるのである。そして第三者の視点で読めば読むほど、北嶋は問題だらけの人間だなあ…さすがに呆れた牧田が、その相手が牧田や牧田の仕事にどんな風に影響するかわからないから考慮しろと言っていたけれど、そういうレベルではないね…ツンデレとか不器用とか素直になれないとかそういう言葉で片付けていいのだろうか…。牧田さんのあのおしおきじゃ直らないと思います…まあいいか幸せそうだし…。
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posted by: mngn1012 | 本の感想(BL・やおい・百合) | 10:55 | - | - |

「FREECELL特別号」表紙巻頭総力特集 ST☆RISH

この本はやばい。なんというか気持ち良く頭がおかしい。はっきりと、真面目に、誠実に狂っている。
とにもかくにもST☆RISHである。第一話の冒頭で、満員の観客が黄色い声をかけるコンサート映像をぶっこんできていきなり伝説になったアニメ「うたの☆プリンスさまっ♪マジLOVE1000%」の中に登場するアイドルグループ。

原作であるゲームの狂ったキャッチコピー(「キスよりすごい音楽ってあるんだよ」)は聞き及んでいたし、一時期買っていたシルフに掲載されていたコミカライズで話の筋は多少知っていた。なのでとりあえず一話を見たのだけれど、この時のわたしはそれほど乗り気にならず、そのまま二話以降を放置した。うたプリは、ST☆RISHは一話の爆発的な人気のままに1クール走り続けた。
そしてしばらく経過してから、何となく見ようという気分になって、二日で全話見た。あーこりゃ面白いわ。ゲームはアニメと比べてかなりストーリーが違うことや、そもそも自分が乙女ゲどころかゲームそのものにあまり向いていないことを知っているのでプレイする予定はないのだけれど、誰か一人を選んで攻略する=恋愛や友情を深めていくゲームをアニメにした時に、誰も選ばないだけでなく、全員をまとめてアイドルグループにしてしまうなんてすごい。純粋にゲームを楽しんでいた人はこの改変と改変部分を中心としたブームをどう思っているのだろうか、と思わなくもないが。

ともあれST☆RISHは現実世界でのCDデビューを果たし、新人アイドルのデビューシングルとしては悪くない結果を出した。そしてこの「FREECELL」である。元々アイドルやサブカル特集をしていたこの雑誌が、うたプリの特集ではなく、飽くまでST☆RISHというアイドルグループに取材をしている。製作者やキャストなどのインタビューは一切なく、ただかれらが実在の人物であるかのようなインタビューとプロフィール、そして写真コーナーなどが展開されている。
その心意気を一番感じたのは、この本に掲載されているうたプリライブのレポートを、ST☆RISH特集の間や直後に構成しなかったことだ。この声優イベントと表紙&巻頭のアイドルグループST☆RISHが無関係であるかのような、しれっとした構成。

表紙とピンナップとインタビューのイラスト(と呼ぶのが憚られる)は同じもの。聖川さんの耳が出ている…!
わたしは見る前から三男坊ちゃんマザコン女ったらし長髪の、平成の南條晃司のような神宮寺レンの顔が好きだったのだが、あまりにも歌詞がアレで一瞬たじろいだ。まあでも最初は直視できなかった歌のシーンも三回くらい見たら慣れたので許す。お付き合いするなら聖川さんがいい。アイドルだから恋愛できないけど!みんなのものだもんね!恋愛禁止条例!
みんな可愛いです。DDです。

インタビューもいかにもアイドルらしいもの。貰って嬉しいものとか、コンサートのこととか苦手な食べ物とか。掛け合い可愛いよー脳内再生余裕だよー。

一番狂ってると思ったのは写真のコーナー。それぞれのメンバーが自分のアイテムと同室の相手のアイテムを撮影したというていで、実際のポラロイドが紹介されている。音也のギターとか、那月のぬいぐるみとか、取り敢えずアイテム選びと写真の雰囲気が巧い。メンバーの、普段は見られないプライベート部分に少し踏み込めたような感じを滲ませている。
いちばん巧いと思ったのは翔ちゃんの帽子、ネイル、ピン、アクセサリーセットかな。外されたピアスがリストバンドと一緒に無造作に置かれている様子はなんともいえない生々しさがある。レンの薔薇や真斗の習字に笑ったり、トキヤの飴や那月のクッキーの奥に見えるタバスコに性格を感じて微笑ましく思えるのもいいんだけれど、この翔ちゃんのセットが想像の余地が一番広いのだと思う。アクセサリーを外した姿を見るより、外されたアクセサリーのほうにドラマがあって、見られないからこそ無限に想像できるドラマが胸をざわつかせる。アクセ外して一息つくのかなーとか、部屋ではスウェット着てるのかなーとか、そういう無限のドラマ。
レンのダーツボードも使い込まれている感じがいい。
自分の気持ち悪さはこの際放っておく。正気に戻ったら負けだよ!

おもしろかったです。
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古屋兎丸「インノサン少年十字軍」下

古屋兎丸「インノサン少年十字軍」下

すでに少年たちは肉体も精神も疲労し、磨耗し、追い詰められていた。ぎりぎりのところで、友情や根拠のない前向きな想像やわずかな信仰心で保たれていたかれらの心とからだは、次第に崩壊を迎える。

マルクを殺してしまった後にことの重大さに気付いたアンリは、双子の弟リリアンを奪回しようと試みるロランに乞われるまま、ユーゴの元に向かうことを決意する。その任務に成功すれば自分の罪がなくなるとでも思っているのか、ニコラに信頼されるようになると思っているのか、かれの瞳は真剣そのものだ。ただ発想だけが幼く、あまりにも脆い。
しかしそれらは、アンリの弱く揺らぎやすい心を理解した上で利用した仲間たちの作戦だった。アンリを誘ったのはロランに扮したリリアン自身で、まんまと騙されたアンリは、リリアンたちがテンプル騎士団に入るための供物として、ユーゴに捧げられる。
不治の病に冒されていたレミーは、疲労や無理がたたって亡くなってしまう。それを見届けたあと、ギーとニコラとロランは、リリアンたちの救出に向かう。
しかし時は既に遅かった。ユーゴに陵辱された挙句裸のまま捨てられたアンリは虫の息だった。かれにつらく当たっていたことを詫びてアンリを一人の騎士として認めたニコラの言葉を聞いて、かれは落ちていた木の枝で自分の体を貫いた。無事助かるとも思えない状態ではあったが、かれが敢えて自分の死を早めたのは、これ以上自分の姿を憧れていたニコラに見られたくなかったからだろうか。自殺が禁忌であると知った上でかれがその方法をとったのは、神よりもニコラの言葉や視線のほうが重かったからか。マルクを殺した以上、救われるわけにはいかないと思ったのか。寧ろ助けてくれない神へのあてつけだったのか。ともあれ衝撃的な行動をとったアンリをギーは手持ちの刀で切った。かれの苦しみを早く断ち切ってやるため、そして、かれの死因を自殺ではなく他殺にすることで救うため。

どうなるのか知らなかったとは言えアンリを死に追いやる原因となったギヨームとリリアンとピエールは、ユーゴの命令に従って、全裸での殺し合いをさせられていた。双子の特別な力でその光景を知ったロランは、ニコラと共にユーゴを討とうとする。
事情をエティエンヌに話すため、ギーは村へ一端帰る。そのあと再びニコラに合流してユーゴを討ったあと、再び村に戻ってきて出発しようというギーの願いは叶わないものになった。アルビジュア十字軍が村ごと殲滅させようと押し寄せてきたからだ。

コレットは現在の宗教の在り方に疑問を抱いていた。教皇の在り方や免罪符の存在は聖書や信仰心を利用した一部の人間の私欲の充足であると感じた彼女は、本来の聖書に回帰することを布教してまわっているうちに、目を付けられたのだ。彼女の鋭い視線や秘密の聖堂は、彼女がつよい意思を持って教皇とは異なる解釈をしていることの証拠だった。
コレットとの対話を終えたゴッドフロワーは何もせず帰っていったが、コレットはこれで全てが終わったわけではない、見逃してもらっているわけではないと分かっている。だから彼女はニコラに、すぐにこの地を去るように言った。しかしコレットの言葉もむなしく、ニコラはアンリ奪還のために、村に拠点をおいたまま旅立った。エティエンヌたちはかれの帰りを村で待っていた。そして、軍が攻めてきたのだ。

アルビジュア十字軍は初め、少年十字軍を殺すつもりはなかった。無関係だから逃げるようにといって来た。しかし、コレットを初めとした多くの信者たちが殺される様子を見て、黙って逃げられるエティエンヌではなかった。それだけではなく、かれが必死になって叫んだ「みんな同じキリスト教徒じゃないか なぜ殺しあうんだ」という言葉が背信ととられてしまう。
異端であるコレットと、それ以外のキリスト教徒を同一化した発言によって、エティエンヌは「汚染」されたのだと判断される。汚染されたものに与えられる罰は、コレットと同じ、死だ。
エティエンヌを助けたのはあの娼婦イザベルだ。救われたエティエンヌはその場で彼女と抱き合う。悲しみや怒りや動揺や安堵や嘆きが交じり合った中で、生まれたばかりの恋心に種族保存の意識が生まれたのかもしれない。

その行為が大きな悲しみの連鎖に繋がる。エティエンヌに恋心を抱いていたクリスチャンによってイザベルは背中から刺されて川に流される。エティエンヌへの思いゆえに女性になりたいと願っていたクリスチャンは、ミカエルによって殺される。
そして娼婦と交わったエティエンヌはミカエルによってゴッドフロワーのもとへ連行され、先ほどの「汚染」の罪と共に異端と判断される。それまで知能に障害があるように思われていたミカエルは、このときを待っていたのだ。
鞭打ちのあと火あぶりに処される予定だったエティエンヌだが、黒い雨が降り始めたためにゴッドフロワーは不吉なものを感じ、火あぶりをやめて流浪の刑に変更する。私欲に溺れ、今の制度の継続のために村を焼くことすら辞さないかれですら恐れるほどのものがエティエンヌにはあったのだ。
ともあれエティエンヌが体に罪人の刻印をされ、両手を縛り付けられたまま十字軍を追われたあと、その頂点に立ったのはミカエルだ。かれらは支援を受けて裕福な道のりを歩むことになる。しかしかれらが行く道にはつねに、エティエンヌと思われる人間の奇跡の話が聞こえてきた。

ロランという犠牲を払いながら、ニコラとギーはユーゴを討つ。村に戻ったかれらが見たものは、一面の焼け野原だった。エティエンヌを助ける旅にでたかれらは道中馬を失い、餓死寸前のところをシスターたちに助けられる。つれていかれた修道院には、クリスチャンによって川に流されたイザベルがいた。彼女たちの手厚い保護で回復した二人は、奇跡を起こす咎人の噂を聞きつけ、それがエティエンヌであると確信してかれを追う。

そしてかれらは見る。骨と皮だけになった、枷を嵌められた人間が歩きながら奇跡を起こす様子を。祈りながら歩くかれは病を治し、死者を甦らせ、泥水を浄化した。
エティエンヌを救うべくかれを探していたふたりと、なんとかしてその伝説を断ち切ってしまいたいミカエル。ミイラのような姿の、もはや生きているかも定かではないエティエンヌに大の大人や健康な子供たちがよってたかって異端尋問を行い、ついにかれは肉体の命を奪われた。

逆転のチャンスをずっと待っていて結果的に大逆転に成功したミカエルだが、かれも決して幸福な最期を迎えはしなかった。教皇になるためのコマとしてミカエルを利用し続けた父によって、かれと少年十字軍の一行は奴隷として売られることになる。かれは結局勝者になれなかった。

その後、エティエンヌがイザベルに遺した命が生まれる。十字軍として派遣されたかれはエルサレム統括権を得て、初めての無血入城に成功する。ニコラはそれをエティエンヌ最大の奇跡であると記している。
けれどエティエンヌ自身はなにものにもならなかった。最初は作られた奇跡の子であったかれは、実際に奇跡を起こすことに成功したけれど、自分も仲間も救えなかった。道を行く数名を救ったけれど、村を救うことはできなかった。エティエンヌの子が何千何万という人の命を救ったかもしれないが、エティエンヌは裏切られ汚名を着せられて死んだ。エティエンヌを裏切ったものもひどい最期を遂げた。インノサン=無垢な少年たちはものの道理も分からぬまま旅に出て、殺し合い奪い合いを余儀なくされ、汚されて悲しみと苦しみの中で死んでいった。それがこの、信仰のもとに集められたろくでもない「少年十字軍」の顛末なのだと思う。そこには美しさはひとつもない。ひとつもなくていい。

***
ユダヤ教がメインなので十字軍についての表記などはほぼないけれど、雑誌「pen」2012年3/1号がエルサレム特集でとても面白かった。penって読んだことがなかったんだけれど、普通の雑誌の巻頭特集のような最初の数ページないしは十数ページの特集じゃなくて、一冊ほぼまるごとガチにエルサレム特集。読んでも読んでもエルサレム。分け入っても分け入ってもエルサレム。
どうして三つの宗教がこんなにもエルサレムに固執するのか、ということなんかも分かりやすく書いてあるので、この作品だけじゃなくて色々な作品を読む上でも便利な副読本たりえると思う。 (大学と独学でちょっと学んだ程度の人間が言うことなので、そのレベルだという前提でお聞きください)
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ひのもとうみ「ソネット」

ひのもとうみ「ソネット」
詩人を目指しているものの最近うまくいっていない仁科は、途中からゼミに入ってきた男・広尾と共同で研究をすることになる。強引でずけずけものを言うものの、詩や詩人に対して深い知識と愛情を持っている広尾と接するうちに、仁科は少しずつ広尾に心を開いていく。

小ジュネ風というか、出来たばかりのころのルビー文庫にありそうな話だった。この時代の、BLという名前がついていなかった作品群は、好きだけれど嫌いだった。面白いけれど不快で、よくも悪くも個性的で一方的だった。書きたいものが明確すぎるほどにあって、そこに向かって暴走しているような感じがあった。この作品はそういう匂いに近いものがあると思う。

かつて詩のコンクールで賞をとったこともある仁科だが、ここ最近は調子が芳しくない。もともと華やかさのある詩ではなく、投稿作なども結果を出せないでいる。そんな、くすぶっているかれを見かねたのか、ゼミの担当である島村はかれにひとつの研究テーマを提示した。カドゥという、あまり有名ではなく資料の少ない詩人だ。
のみならず、島村は同じカドゥをテーマにした研究をもうひとりの学生にも命じていた。留学などの都合で後期からゼミに現れた二つ年上の男、それが広尾だった。島村の親戚でもあるというかれは、語学に長けているだけでなく、詩や詩人への深い教養と愛情を持っている。かれは仁科と違って詩作ではなく、詩人やその作品の研究・紹介を志している。人見知りでろくに友達もおらず、そのことをさして不満にも思っていない仁科にとって、強引でずけずけ物を言う広尾は最も苦手とするタイプだった。けれどカドゥの参考資料が少ないこともあり、仁科は広尾の提案に乗って、資料を共有して各自研究を進めることにする。

「平凡」と称されることの少なくない自分の詩を理解している仁科は、広尾に乞われても自分の詩を見せたりはしなかった。しかし島村経由で詩を見たという広尾は仁科の作品を気に入り、伸び悩んでいるかれに「とにかく書き続ければいい」と告げた。それは、詩人として生きてゆくことを志しつつも折れてしまいそうな仁科にとって救いの言葉だったのだろう。その言葉に仁科は思わず泣いた。おそらくかれにとっては自分の容姿だの性格だの、もしくはトータルでの人間性だのより、自分が産んだ詩を評価されることのほうが大切なのだろう。
その言葉と、泣いた仁科のこめかみに広尾が寄せた唇がきっかけになり、二人は一気に親密になる。研究が終わったその夜、ちょっとばかりの酒の力と、広尾の持ち前の強引さによって二人は寝てしまう。軽い口調でからかいながら、「俺のものになっちまうか」と広尾は言う。それに対して仁科は答えなかったけれど、かれに抱かれながらかれを好きだと実感する。そして初めて人と抱き合ったことで仁科の世界は急激に変化する。どんな言葉も意味を持たない肉体言語で語りあうことを覚えたばかりのかれは「理屈なんかどうでもいい」と思うようになる。
そして仁科は一気に広尾に、広尾本人と広尾といる時間と広尾と抱き合うことに溺れた。共通の授業を選択しようとしたり、極力一緒にいるために詩をつくることが後回しになったりする。それは初めての恋人を持った大学生としてはさほど珍しくない振舞いのようにも見えるけれど、普段寛容な広尾はそれを認めなかった。ろくに学校に行かないこと、なにより詩を書かないことを憂いて、もうすぐ始まる休みの期間中日本にいないことをぎりぎりになって告げた。離れ離れになるから詩をかけ、と言うことも忘れなかった。

広尾はずば抜けて一方的な男である。仁科が授業をサボることについて細かく注意するくせに、自分が授業をサボっていることを仁科に追及されると「俺のことがお前に関係あんのか」と返す。ダブルスタンダードにもほどがあるこの無茶な理屈は、あらゆるところで使われる。しかもそれを、仁科をなんとか騙して丸めこんだなどと思っていない。大切な仁科のことと自分のことを考えた結果、そういう答えに帰結するのだ。詩しかなかった仁科にそれ以外のもの、かれが詩よりも優先してしまうほどの魅力的なものを見せて教えてやったのは広尾だ。なのに広尾は仁科が詩を最優先にしないことが許せない。
直前に予定を話して外国へ発った広尾は当初の予定を過ぎても連絡せず、メールも電話も無視し続けた。それはかれが弁解していた忙しさの所為もあるし、恋人に対してまめなようには見えないかれの性格的なものもあるだろうし、詩作に入る仁科への配慮や、恋に溺れた仁科への勧告や、ともかく色々なものがあったのだろう。色々考えて仁科の詩のために行動した広尾は、離れている間に仁科がろくに詩を書けなかったことを聞くと、「抱いたりしなければよかった」と言い、もう会わないと仁科を突き放した。仁科と学校で顔を合わせても無視し、家まで来ようと相手にしなかった。

追い詰められてぎりぎりのところまできた仁科は、島村の優しさや広尾の詩への愛情で少しずつ立ち直る。離れてからかなりの時間をかけてようやく、かれは恋愛にのめりこんでいたときに詩を捨てかけていた自分のことと、それによって広尾を傷つけていたことに気づくことができた。
そのことに広尾はようやく気づけたけれど、読み手には二人が口論をしているときからその気配があることは分かるように描かれている。だからこそ余計に感じるのかもしれないが、恋愛慣れした男に翻弄されるかたちで始まった、いわゆる一般的な順序を踏まずに巻き込まれた初めての恋に舞い上がった仁科は、それほどまでに責められるようなことをしたようには思えない。かれ自身も人を好きになればこうなるのが普通なのではないかと言っていたように、それは付き合いたての恋人の姿としては群を抜いて異常だったわけではない。年齢も経験も上の広尾が、ある程度仁科を理解してうまくコントロールして社会に戻してやればよかったんだけれど、そんなことが出来る広尾ではなかった。広尾にはゆっくり見守る、という機能がついていない。

そのかれの性格は、ようやくよりを戻したあとも変わらない。卒業後一緒にフランスに行こうと提案して強引に言質をとったあとは、出発日も予定も何も聞かされていない仁科が準備や覚悟をしていないことに呆れ、いきなりすぎるスケジュールに戸惑ったら情けないと責めたてる。…この男の何がいいんだろう…。
本人の承諾を得ないまま練られたプランを把握できずに反論すれば「どうにかしようと努力する前に文句を言うのか」と叱られ呆れられ、一念発起してバイトを沢山入れれば会えないことに苛立たれ、世間知らずなりになんとか金を稼ごうとしたら激怒される。その上、フランスに行く覚悟が見られたら金はなんとかするつもりだったと言ってくる…書いてて腹が立ってきた…。
ともあれそんな広尾に振りまわされっぱなしの仁科は、一度捨てられたことが尾を引いており、きちんとしなければ今度こそ関係が駄目になるのではないかと不安がっている。体調を崩すまで働いて、危険なバイトを初めて、けれどその頑張りすらろくに評価されない。けれど仁科は広尾に不満や怒りがあるけれど口に出せないのではなく、何か言われるたびに「ちゃんと出来ない」自分をふがいなく思って、なんとか広尾と並べるように頑張ろうとするので、たぶんこの二人はこれでいいのだろうと思う。いつまでも二人一緒に暮らしました、が全然ハッピーエンドに聞こえない破れ鍋綴じ蓋カップルだけれど、仁科が幸せそうなのでいいや。

情熱とか勢いが先走った感のあるテーマと、書きたいところを書きまくったような展開。そして他の作品よりも分かりにくい感じの文章。腹の立つ攻と、感情移入することも応援することもできないダメんず受。でもこういうたぐいの本にしかない、何とも言えない衝動や焦燥感がある。BLというよりはやおい、というイメージ。
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posted by: mngn1012 | 本の感想(BL・やおい・百合) | 23:47 | - | - |

草間彌生 永遠の永遠の永遠@国立国際美術館


張り切って水玉着ていったら、そんな人が他にもたくさんいて面白かった。


入口前に並んでいるオブジェ。この圧倒的なインパクト!強烈!


美術館のやる気を感じる入口。


入口を入って地下へむかうと通る、チケット売場の隣にある看板。


そして地下2階にあるカボチャ。このカボチャは前名古屋の高島屋で偶然見たんだけど、やっぱり好きだなあ。

ざっくり分けて赤地に白い水玉の導入部、モノクロ作品、カラー作品、白地に赤い水玉の部屋、「魂の灯」、最近の作品、そして映像とプロフィールを兼ねたこれまでの写真、がある。

無数の目や人の横顔、水玉や渦のような模様、みつあみのような模様、昆虫や微生物のような模様が敷き詰められるように描かれているモノクロ作品は、一見同じようなものに見えるんだけれど、タイトルを見るとなんとなくそう見えてくる・納得できるからふしぎ。「春」とついていれば春に、「夜」とついていれば夜に見えてくる。
不思議な模様の中にあるモチーフは、犬、ティーカップ、眼鏡など共通している。そこにどういう意味が込められているのかは分からないけれど、たくさんの「女」や「春」「夏」の中に、繰り返し同じモチーフが用いられている。

モノクロのテーマと同様のテーマに見えるカラー作品もすごかった。色使いがなんていうかもう無敵な感じ。アフリカンな色合いだったり、ヨーロピアンだったり、なんでもありなんだけどとっちらかっている感じがしない。どの絵が好きというよりは、白い壁にかけられた作品の集合体としてすてき。


撮影可能な部屋。床も天井も壁もすべて水玉が貼られ、水玉に塗られた花のオブジェが三体。

「魂の灯」は鏡張りの部屋にさまざまな色の電球がぶら下がっている。制限された人数で中に入り、その、無限にも有限にも見える部屋を体感する。すぐ目の前に壁があるような、どこにも壁がないような錯覚に陥る。きれいだったー。

幼い頃から幻覚が見えていたというエピソードや、不安神経症を長らく煩っているというようなエピソードの所為か、わたしはずっと草間彌生という作家は闇に寄り添って活きているのだと思っていた。しかし以前東京で偶然見た作品で、彼女が自分のポートレートに「わたし大好き」と描いているのを見て、どうもそればかりではないのだと思いなおした。
そして今回多数の作品を見て感じたのは、彼女はやはり近くまで迫ってくる闇と戦いながらも、非常にポジティブな精神をも持ちえている、ということだ。彼女は自分の作品を「自分のものとは思えないくらい素晴らしい」と言い、非戦・反戦を謳い、自分を含めた地球や宇宙や人間や芸術を愛している。肯定している。展示されていた作品は一部を除いた殆どが肯定的なテーマで描かれていた。
生命が永遠に回帰すると考え、死を含めたあらゆるものへの恐れを越え、戦い抜く覚悟を決めている彼女はニーチェが言うところの「超人」のようだ。
草間彌生が魅力的なのはその絶対的な強さの裏に、今にも自ら死を選びそうな衝動があることだろう。非常に危ういのに、誰よりも卓越して安定しているようにもみえる。
この展示を見て草間彌生のことがすごくよく分かったし、やっぱり全然分からないとも感じた。

13分ほどの、制作風景とそこでのインタビュー、出来上がった作品を見ての感想と、詩の朗読の映像もあり。
作品を見ながら、どこからどういう風に描き始めるんだろうかと思っていたので、制作風景が見られたのは面白かった。「失恋の痛み、そして自殺したい」の制作の早送り映像では、黄色く塗られたカンバスの中央でも端でもない部分から一周回るようにして赤を乗せていく。そのあと黒く塗りつぶして、再び赤を乗せる。最初から全てを考えているのか、描いている中で生まれるのか。80を越えて歩行も困難な彼女は、スタッフに絵の具と筆を手渡され、皿を持ってもらいながら、それでも一心不乱に描き続ける。
精神病院に生活の拠点をおいているという彼女は、どの病院に行っても不安神経症だといわれる、実際に自分はずっと自殺の衝動や恐怖と戦っている、だから絵を描き続けるのだと言う。1000枚でも2000枚でも死ぬまで描き続けたい、と。自分に下されている診断を知り、それと向き合って、寄り添って、反発して、ともかく草間彌生は作品を生み続ける。
フロアにずらっと並んだ作品を、車椅子に座った草間が見ている。汚れないように割烹着のようなエプロンをまとった制作中の格好とは違う、オレンジのウィッグに自分の作品から生まれた服、そしてアイラインを引いた姿は、彼女すら彼女の作品なのだと思わせる。
彼女が眼鏡をかけて読む詩は、詩というよりは宣言であり、犯行声明のようでもある。肉体や魂が終わったあとにも残る芸術を作り続けること、闘い続けることを彼女は高らかに宣言し、眼鏡を取って正面を向く。死なないための創作であり、闘いでもある創作だなんて格好良すぎる。

あと本展の入場券で一緒に見られる地下二階の「コレクション」展にも草間さんの作品があった。銀色に塗られた靴から銀色の柔らかい突起が生えている立体ものとか。これが「柔らかい彫刻」なのかしら。まだ若い時期だからなのか外部に向かって尖っているような感じがした。

***

朝日新聞大阪本社ビルにある「水玉強迫」。ビル全体もドットで飾られていたのだけれど、自転車通りぬけ禁止などのポスターがたくさん貼ってあるのであんまり美しくなかった…仕方がないんだけど。

リーガロイヤルホテルの「明日咲く花」。横に4メートルくらいの彫刻。すごい。
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posted by: mngn1012 | 日常 | 13:06 | - | - |