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2011.06.30 Thursday
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三木眞一郎・神谷浩史「やすらかな夜のための寓話」(原作:崎谷はるひ)
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三木眞一郎・神谷浩史「やすらかな夜のための寓話」(原作:崎谷はるひ)
原作はきもちわるいくらい既読。きもちわるい感想はコチラ。
五本の作品が入った同タイトルの短編集より、「雪を蹴る小道、ぼくは君に還る」と「ネオテニー<幼形成熟>」を収録。表題作が選ばれなかったので、「やすらか~」と名のついたCDなのに「やすらか~」が入っていないという状況。
この二作品が音声化されると聞いたときから、多くの人が、既に発売されていた「はなやかな哀情」の音声化を見越してのことだと思ったことだと思う。二人が過ごす日々のある一日を切り取った他の三タイトルとは違って、今回選ばれた二作は「はなやかな哀情」に深く関わっている。とくに「ネオテニー<幼形成熟>」を無視しては、「はなやか~」で不明瞭な部分が出てくるほどだ。「雪~」がないと弓削も朱斗もいきなり現れた新キャラとしか思えない。作者HPに掲載されている小説に出てくるのだけれど、それを読む人は「やすらか~」も読んでいると思うし。CDを聞く人における原作を読む人の割合は分からないけれど、CDだけでも話が理解できるものにしようとすると、この二作は外せない。
それは分かる。しかし、この原作の中で作品に順位を付けると、個人的にこの二作は四位・五位なのでちょっとかなしい。いや、この二作もいいんだ。だから何が言いたいかと言うと、なんで殆ど二枚組のシリーズなのに、敢えてこれだけ一枚なのかと。二枚にして残りの三作も音声化すればいいじゃないかと。別に三枚組でもいいよと。「MISSING LINK」のプロポーズ聞かせてくれよと。
同じような日記を書いた記憶があるけれど繰り返しておく。
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・「雪を蹴る道、ぼくは君に還る」
大晦日だと言うのに仕事で東京に行った慈英は、息がつまりそうなパーティ会場でひとりぽつんと立っている少年を見つける。これ以上面倒な話に巻き込まれたくない慈英は、かれと話すことで他の人間を遮断しようとする。
つまらなく居心地が悪いパーティの最中、「臣さんどうしてるかな…」という慈英のモノローグでいつもの音楽が流れ、大晦日に用事が入ったと伝えたときの臣のリアクションに回想。もうこの曲聞くだけでテンション上がる…!そして臣さん!臣さん!臣さんひさしぶり!
弓削と朱斗登場の前半と、慈英のそれでなくても度を超えている愛情が暴走する後半。原作ではモロ関西弁の朱斗は、標準語と関西弁がミックスな感じに変更されている。梶くんが関西人じゃないから、という配慮だったらしいけれど、この関東に出てきて結構たつのに微妙に関西弁が抜けきれなくて、ぽろっと出てしまう感じは朱斗らしくて良かったと思う。かと言って関西弁で押し通さないところも、はなやかな世界にいる弓削に気後れしつつ何とかついていかないと、と思ってる感じで。こういう改変が自然なのは原作者脚本ならでは。
そして原作やWEB掲載小説ではパーティで慈英に話しかけることのなかった弓削も、CDでは話しかけてくる。この弓削の高慢で慈英にあからさまに敵意を持ってますっていうアピール、言葉こそ丁寧なものの、慈英のことがだいっきらいと全面に出ている感じが凄く良かった。気持ちいいくらい嫌な奴。好演好演。「はなやか〜」も楽しみ。
そして長野。なんていうか臣さんかわいい、の一言で全部が終わるんだけれど。この時期の臣は「ひめやか」と「あざやか」の間くらいの話なので、慈英との関係にある程度の時間が重なって心を許している反面、まだ愛される自信が持ちきれずにちょっと不安もある、揺れやすい頃の臣だ。それにしてはちょっと臣さん落ち着き過ぎのきらいもあるような。
おそらく無自覚のストレスが溜まっていた慈英が暴走する。普段は優しくて若干押しが弱いところもある慈英がたまに見せる狂気に臣が翻弄される。こわい、と怯える臣がかわいそうでかわいい。
ラストが「明けましておめでとう」になっているのもいいな。
あと慈英視点の話は相変わらずびっくりするぐらいに巧い…。
・「ネオテニー<幼形成熟>」
臣と慈英が久々に共に過ごせる休みの日に、いきなり前触れもなく慈英の従兄の照映が訪れる。臣を相変わらずからかってばかりのかれだが、実は、一枚の絵を臣に差し出すべく持ってきていたのだ。
冒頭は照映視点で慈英との過去、自分が絵筆を折ったきっかけの話。そのあとは臣視点で、いきなりの従兄の来訪に舞い上がる慈英にむしゃくしゃしたり、弱る慈英を甘やかしたり。
照映さんが原作から苦手な上、演技ももってまわったような喋り方なのがしっくりこない。抑揚がない。子供慈英はまあ…出番が少ないからまあこんなもんか、と思うんだけれど、照映は出番が多いのでちょっと苦しい。一方で浩三さんの安定感の素晴らしさ。一人で鼻歌うたいながら途中でくしゃみして帰って行くフリーダムっぷりがいとしい。
照映が現れた瞬間からのものすごく棒読みリアクションの臣とか、照映が来たことで舞い上がって浮足立っている慈英とか、そんな慈英に苛立つ臣とか、照映が来たことでいつもと違う心情になる二人がかわいい。普段は全体的にローな慈英がふわふわして機敏に動いているだけでなく、照映という永遠にかなわない年長者を前にして幼くなっている。
照映の「かなわねえな」のくだりは直前の臣のえらそうな「見せろ」がないと生きてこないんじゃないのかな。これは脚本の話。ここだけじゃなく崎谷さん自身が脚本をつとめることの利点と難点については前から悶々としていて、答えが出ないままだ。作者ならではの遊び心のある改変や大胆な設定変更が、時間が限られているCDとしての分かりやすさ。本職ではないがゆえの脆さと、客観性の欠如。このあたりの擦り合わせがもうちょっと出来ると凄く良いものができると思うのだけれど。
自分が入れて欲しいシーンがない!ということへの八つ当たりかもしれないが。
照映が絵をやめたことは幼い慈英にとって大きな事件であり、かれは大きな罪を背負うことになった。そして照映が改めて過去の絵を持ちだして臣に渡したことで、改めて慈英はその罪と向き合うことになる。弱った慈英が臣に吐露する積年の苦悩が切なくていい。人物画を描くのが好きじゃないという慈英は、溜めこんでいたものを臣にぶつけて許されようとしている。甘えている慈英の弱り切った声がかわいい。慈英さんには不満がないよ…。
そして慰める臣はやっぱり大人で、年上なのだと思い知らされる。参ってしまっている慈英を気づかいながらも、どこかでかれが自分を頼ってくれることへのほの暗い喜びも感じている。優しく甘やかす声の中に、必要とされていることへの嬉しさが滲む。
こちらの慈英は「雪〜」の何倍も思い詰めている。そしていくつもの困難を超えてきた分、臣への執着が強くなっている。臣は自分のものだから独占する、と切羽詰まった声で言う慈英の必死さがこわくていい。半端な気持ちでは向き合えないくらいの強さがある。それに戸惑いつつも喜んでいる臣もまた、狂気めいている。愛情を重ねて穏やかになるのではなく、どんどん深く強くなって思い詰める。
臣さんのモノローグは今回が一番ナチュラルで良かった。
「はなやか〜」前哨戦、伏線といった印象がつよい出来のCD。CD単体での出来は物足りないところも多いけれど、慈英も臣も相変わらず素晴らしかった。三年ぶりって信じられない。
やっぱり「やすらか〜2」として残りの三話も音声化してほしいよう。
あとは神谷さんの新作がめったにないので、期待値が物凄く膨れ上がっているのだと思う。だからもっとコンスタントにBLに出ればいいとおもいます。出て!
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特典トークCDは物語に出てきたアイテムやキーワードからのトーク。「蕎麦」とか「パーティ」とか「雪とかそういうの。三木さんがべらんめぇハイテンション。同窓会で自分みたいな格好してる人いないでしょ・みんなもっとかっちりした格好している、という話になったときに、特に三木さんみたいな人はいないという流れで、神谷さんが三木さんの細さを「病気じゃないけど病的」と言ってたのが面白かった。たしかにね。
ものすごく「はなやか~」について繰り返していてお別れ。取り立てて何ということもないけれど、そつのない感じのコメントCDでした。
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2011.06.29 Wednesday
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お買い物
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絶賛暑気あたりで更新頻度が下がっております…はやく11月くらいにならないかな。
いっそ夏眠(冬眠の対義語)したい。
巻物がすきです。ショールストールマフラー大好き。ちょっとお高めのやつから雑貨屋で叩き売られているようなやつまで買いあさって、同じく巻物がすきな母と兼用しているのだけれど、これは「要らない」と言われてしまった、黒×赤ユニオンジャック総柄。ガチのユニオンジャック色と、茶ベース×青ラインのものもあった。たぶん3000円くらい。
白いカットソーにこのうるさい柄を巻いてたのしみたいところ。
左上が塗りつぶされているのは、微妙に雑然とした本棚が写りこんでしまったためです。
ゼブラっぽい柄のワイドパンツ。ウエスト部分の縦幅がベアトップくらいの長さにまで伸びるので、トップスを入れても出してもかわいい。そしてなにより、超薄手の布なのでものすっごく涼しい。
しかし試着したら下着が完全に透けたので、店員さんに「これ中にレギンスとか履いたらいいんですよね?」と確認したら「カラータイツとかレギンスとか履くか、結構下着見せちゃうって言う方もおられますよ!」と屈託なく返された。
えっ。
Vivienne Westwood Red Labelの小花柄ワンピース。
FUDGEで見てひとめぼれしたので、入荷時期とか色や形のバリエーションを聞くために店頭に行ったら既に出ていた。最初はブラウスがほしかったんだけれどサイズがなくて、取り寄せしようかなーと思いつつワンピも試着したら思いのほか可愛かったので…買っちゃった…。
柄はこんなの。薄い水色に赤い花とオーブ!かわゆ!
長年腕時計に興味がなかったのですが、最近のフェイスがばかでかい時計が非常に可愛くてやばいです。あとザ・夏!って感じのアイシャドウがほしい。
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2011.06.28 Tuesday
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御徒町鳩「腐女子っス!」4
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御徒町鳩「腐女子っス!」4
進級して3年生になっためぐみたちの部活に、二人の一年男子が顔を出した。見た目も口調もおっとりしている米川と、少しきつそうな中村。プロ志望で実際に少年漫画を描いていると初対面の面々にも言う中村は、去年の部誌に載っためぐみの漫画を読み、プロを目指しているのかと問うた。昔はなりたかった、と言葉を濁すめぐみに、中村は追求を止めない。今はなろうと思っていないのか、いずれ社会人になる身として漫画家という道は選択肢にないのか、単に考えないようにしているだけではないのか。
中村の意見は、初対面の先輩に向けるにしては乱暴で、ぶしつけなものだった。けれど内容如何を無視して叱れるタイプの人間はこの場にいなかったし、なにより、ある意味で中村の意見が正論だと、皆が思っていた。途方もない夢に向かって着実に努力している中村を笑えるものも、煩わしいと言えるものもいなかった。みんながなにかしらの創作をしている人間で、時間やお金を費やせるだけの情熱を持っており、自分の実力や立ち位置を直視する事を恐れている。
先に帰ってしまっためぐみについて、友人付き合いが長いえりは「一生描いていく人」と語る。部活や学業や恋と併行してずっと漫画を描き続けためぐみは、人生から「描く事」を切り離せなかったし、きっとこれからもそうだろう。めぐみ以外にも、そういう人間は少なからずいる。
では仕事をしながら趣味で描くのか、描くことそのものを仕事にするのか。
イベント会場で知り合った同人作家で、商業誌でプロデビューした知人と偶然会っためぐみは、彼女にこの日のことを打ち明ける。
漫画を描くことと、漫画家を目指すことは別だ、と彼女は言う。実際彼女は何らかの雑誌に投稿してプロになったわけではなく、雑誌から声がかかったのだ。何度も持ち込みを繰り返したり、アドバイスを貰って何度も描き直したりするひとびとがなかなか座れない場所を、彼女は向こう側から提示されて、そうして初めて自分がそこに座るかどうか考えた。プロになろうとなるまいと漫画は描き続ける。その上で座るのか、座らないのか。
プロを目指しているひとからすれば非常に羨ましい、恵まれた、奢った迷いに見えるかもしれない。彼女の何十倍もプロになりたいと強く願って、それでもなれずに諦めてゆく人がたくさんいる。そういうことを知った上で、彼女は「関係ない」と言った。他人の意欲や情熱や努力は、自分が漫画を描くことにも、自分がプロとして活動することにも関係ない。戦うのも向き合うのも自分自身でしかない。
つまりプロになりたいと公言して実行する中村の言葉も気持ちも、めぐみの漫画・漫画家への夢とは関係がないのだ。そう言われて自分自身でも納得できためぐみは、晴れがましい気持ちで、漫画家という夢に向かって歩もうと決める。
なりたいからなれるものではない。中村もめぐみも、他の部員も分かっている。それでも「なりたいと思わなければなれない」と言える中村と、それを「言い訳にしていた」めぐみ。ならないと言い切れるほどの強さもなく、なれたらいいなと思えるほどおこがましくもなく、逃げていたことを改めてめぐみは自覚する。
家に帰っためぐみが自省しながら思う、「私はただの漫画が好きな子供だ たぶん一生」「だからそれを生業にできるように動こう」という決意がすごく好きだ。このシーンに限ったことでなく、まためぐみに限ったことでなく「腐女子っス!」からは、幼いころから漫画を読むことと描くことが大好きなオタクで腐女子で、その気持ちを持ち続けたままプロになった作者の気持ちがひしひしと伝わってくる。同人活動をしている中でプロになった友人・知人がいて、その一方でならない道を選んだ人がいて、なりたいけれどなれない人がいる、そういう環境にあったからこそ描けるものなのだろう。
そして自分は(どんな経緯か知らないが)プロになった漫画家でありながら、ならなかった・なれなかったひとたちの事情もいやというほど分かっているのが御徒町鳩という作家の繊細さであり才能なのだろう、とも思う。
いざ漫画家を目指すことにしためぐみが、必ずしも公言してまわるものではない、と思っているのもいい。中村に触発されたけれど、決して中村と同じ方法をとるのではなく、めぐみはめぐみの道を行く。
自分の中の靄がひとつ晴れためぐみとは反対に、めぐみの彼氏であるかず君はストレスを溜めていく。常日頃から忙しくてなかなか予定が合わないめぐみが、中村と話しているところを見たり、部活や友人とのことを濁して詳しく話してくれない事がかれを苛立たせる。
めぐみは部のことや漫画のことを彼氏に話さない。ユキやえりのように、もしくは中村や米川のような部員のようにスムーズに話が通じないので一から説明しようとするとかなり話が壮大になってしまう。それほどまでの労力を、漫画に興味のない聞き手に強いるほどの話ではない。なにより、そんなにもアツく漫画について考えたり悩んだりしている自分がいかにオタクか分かっているので、かれに知られたくない。
けれどそれは、オタクか否かということよりも前にめぐみの彼氏であろうとするかず君にとっては、「線を引かれ」たように感じてしまう。実際めぐみはオタクと非オタクという線を確かにかれと自分の間に引いている。
「腐女子っス!」は腐女子の心情の機微やテンションについて非常に丁寧に的確に描かれた漫画であると同時に、テーマである「腐女子」の部分を他の趣味に挿げ替えても成立する優秀な少女漫画でもある。そういう意味でこのめぐみとかず君のすれ違いは、ジャンルをまたいだ「あるある」だと思う。
自分が度を越えて熱中しているもの、必死になっているものがある。それが一般的にはあまり好印象をもたれないもの・もしくは自分の嵌り方が尋常ならざるものである場合、人間はそれを隠しがちだ。そういう自分を知って嫌われたくないから。そういう自分を知って、自分の好きなものを非難されたくないから。興味のない相手に説明するには難解だったり、好き嫌いが別れたりするものだから。あらゆる理由で、何かしらのマニア・オタクは趣味を隠す。お仲間や一部のものすごく心の広い人にだけ打ち明けて、自分と自分の愛するものと自分にとって大切なひとびとの平穏を守る。つもりでいる。
めぐみは大きな勘違いをしている。確かにかず君は漫画に興味がないけれど、めぐみに、自分の彼女には興味があるのだ。彼女が好きなもの、大切にしているものを知りたいと願うのは普通のことなのだ。
線を引かれて寂しい、とかず君は言った。めぐみはその言葉を受け取って、かれの寂しさを払拭すべく、会う頻度を上げることにした。違う世界の人だからこそ、距離を埋めようとした。その言葉にかず君は喜んだ。
けれどその結果めぐみはどんどん疲弊していく。デートと勉強と漫画の両立が彼女を苦しめていく。めぐみが選ぶべきは線が引かれていることを前提とした寂しさの穴埋めではなく、線が引かれていることそのものの解決だったのだろう。けれど初めての彼氏相手に、オタクである自分という後ろめたさが相俟って、彼女はうまくない選択肢をとった。そこへ、めぐみを誰よりも理解しているからこそ辛辣なえりからの冷たい言葉が重なって、めぐみは最悪の心理状態になる。それを見たかず君から、しばらく会うのをやめようという提案がなされたものだから、めぐみのパニックはひどいことになる。全部うまくやろうと頑張ってるのに、全部がうまくいかない。我慢してるのに、ちっとも報われない。けれど限界にきて爆発した所為で、めぐみはようやく冷静になる。
うまくやろうとか頑張ろうとか我慢とか、そういう考えがそもそも良くなかったこと。寂しいと言われたから会うんじゃなくて、会いたいと思って会うべきだった。描きたいから描く。行きたいから行く。自分で選んだ道だからこそ、理由を誰かに依拠してはいけなかった。
ユキが回想する、仲良し腐女子三人組の出会いもかわいい。良い関係!
そして新入部員男子二人組。漫画を描くふたり、でくくってしまいがちだけれど、実際はかなり違う。少年漫画でプロになりたい中村は、コミケや萌えというものを知識としてしか持っていない。一般人のような偏見や誤解はないだろうけれど、知らないという意味では大差ない。
そしておっとりして見える米川は、即売会でアニメの二次創作同人誌を買い漁るタイプのオタクだ。中村は米川に、かれにとっての未知の世界である「萌え」を伝授されることになる。
萌えはむずむずと自分の中から沸き上がってくるものだから、それを持たない人が努力して得るようなものではない、と多くの「萌え」を抱えるオタクは言うだろう。わたしもそう思う。「萌え」は自然発生するからこそ楽しく、制御がむずかしく、説明も難しい。けれど真剣に熱意を持ちたがっている中村を、そういう言葉で米川ははねのけなかった。かれが見ているアニメのキャラを例に出して、懇切丁寧に「萌え」について説明する。
この説明がまた上手い。二次をやるひとの萌えの一種なので、共感できないひとも沢山いるだろうけれど、それにしても上手い。その奥深さとばかばかしさ、楽しさと後ろめたさ、気恥ずかしさが見事に表されていると思う。そして米川の巧みな説明によって、中村は自分の中にも「萌え」の火種があることを知る。
そして米川は問う。無理やり引きずり込むのではなく、こちら側へ来るのか、と確認してくれる。「二次元のキャラに入れあげる自分を受け入れられる?」と。
さてどうなる次巻。相変わらずきゅんきゅんしてはらはらして面白かった!こういう甘酸っぱい青春送りたかったよー!
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2011.06.27 Monday
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高河ゆん「佐藤くんと田中さん-The blood highschool」1 限定版
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祖父の遺したノートに描かれていた言葉と写真から、先月転校してきた佐藤くんが吸血鬼だと確信した田中さんは、佐藤くんにその疑問を正面からぶつけ、かれを家へ招く。否定も肯定もせずに家に上がった佐藤くんは、田中さんの祖母との「70年ぶり」の再会を喜ぶ。
「天使庁」は?とか、片付いていない(そして片付く気配の一向に見えない)シリーズが一杯あるのにシリーズ新しく増やしてどうするのとか、言いたいことは沢山あれども、実際出たら買うし、読んだら面白いのだ…面白くなければもういいよって言えるのに、面白いからついていくしかない。ブツブツ言うのは許して。
可愛いのに思いこみが激しくて勉強ができなくて変わり者で超絶ポジティブでデリカシーのかけらもない田中さんは、佐藤くんが吸血鬼であることを大前提として話しかけた。吸血鬼なの?ではなく、かれを吸血鬼と見込んで、話しはじめた。
頭の中身が残念な田中さんを罵ったり責めたりする佐藤くんと、佐藤さんの言葉をいまいち受け止めずに自分の思うようにふるまう田中さん。会話が成立しているようなしていないような二人の、短いエピソードで紡がれる毎日はばかばかしかったり、勘違いだったり、切なかったり。
田中さんの亡くなった祖父の遺したものから吸血鬼や佐藤くんの過去をさぐるエピソードや佐藤さんとかつて付き合った女性との別れから佐藤くんの性格を見るエピソードのような主軸の話だけでなく、学校で流行るちょっとした怪談・クラスメイトから見た二人のやりとりのような番外編風味の話まで、色々な角度でかれらのことが語られる。もしこの物語にテーマや大きな命題があるとしたら、そこに関わってくるものも関わってこないものもいっしょくたに混ぜて描かれているような感じがする。今の時点では田中さんの大いなる陰謀や佐藤くんの存在を賭けた戦いのような主題があるのか、それとも変わり者の吸血鬼が長い命の中でひととき出会った変わり者の女子高生とのふれあいで終わるのか、すら分からない。どちらでもいいような気がする。両方やってのける、ということもありうる。そういう意味では「子供たちは夜の住人」にテイストが似てる印象。あれもお茶の間日常ファンタジー(でもじつは世界を救ってる)でした。
文子さんがかわいいおばあちゃんなので深刻さが伝わりにくいけれど、佐藤くんは彼女に確かに恋をしていた。会えなかった70年の間に他の恋を(きっといくつも)したけれど、それでもかれは約束通り文子のもとに現れた。かつてと同じ気持ちで、彼女を欲した。その恋は叶わなず、かれは同じ女性に二度失恋した。
そのあと現れた、30年前に付き合っていた女性アリサとその娘の明石との話もいい。アリサが末期癌に冒されて、もう手だてがないと知った明石は、佐藤さんに何とかしてもらうように頼みに来た。けれどかれはそれを引き受けない。明石の駆け引きにも乗らず、かつての恋人と同じ顔の女性に冷たい言葉をかけて追い返した。そして夜こっそりアリサの病室に向かい、姿を見せようとしないかつての恋人に尋ねる。時間を止めようか、と。それはたぶん、再会した文子に言ったことと同じだろう。不老不死の吸血鬼であるかれは、人間の時間を止め、おそらく不老不死にすることができる。
けれどアリサはそれを拒んだ。尋ねた佐藤くんは、それを知っていたように思う。アリサはそんなことを望んでいないと分かっていたのだろう。かつて愛し、ともに生きた女だから。そして佐藤くんは、こうやって他にもたくさんの女性を見送ってきたのだろう。
アリサのその後は、吸血鬼のレストランで語られる。学校の屋上、ナースのコスプレをした女たち、旧友。そんなものに囲まれながら、齢100を超えた吸血鬼は高校の制服を着て輸血パックをすすり、かつて愛した女の死を知って肩を落とす。そのあまりにもアンバランスな光景が、かえってせつない。なんでもない話の合間にこういうエピソードを挟みこんでくるところがにくい…!
田中さんの祖母と出会ったときの名前を語る佐藤くんが、それは100年前の名前で、本当の名前は「昔すぎて」忘れた、と言う。100年やそこらではないとおい過去に、最初につけられた名前があるのだ。それを田中さんは聞いていたのに、次の話で田中さんは佐藤くんを「たぶん80〜90歳」と言っている。田中さんはお勉強ができないし、人の話もあんまり聞いていないので、佐藤くんの話を聞いたうえで間違えているのかな。冒頭に収録されているものはナンバリングされていないので、これだけ別と思えばいいのかな。ちょっとひっかかる。
70年前、田中さんの祖母・文子さんは、佐藤くんではない男を選んだ。「三郎」と繰り返し佐藤くんが口にするのがその男だ。けれど田中さんは、自分の祖母は「正二」だと言う。そして文子さんは、すでに亡くなった親しい人を挙げる中で「二人の夫」と言う。その流れからすると、田中さんの親は文子さんの二人目の夫である正二の子供なのだろう。それ自体は不思議ではない。
しかし田中さんが倉で見つけた祖父のノートには、佐藤くんについての情報があった。佐藤くんは文子と三郎の目の前で「70年後に行く」と捨て台詞を遺したので、佐藤くんについて書いたのは三郎だろう。ノートはおそらく三郎のものだ。一人目の夫の遺品を大切にしまって、二人目の夫と結婚することもおかしくない。けれど田中さんの母親はそのノートについて、祖父がボケて書いたものだと言うようなことを述べている。勿論そういう状態になるのは高齢者ばかりではないのだけれど、どうにもこうにもひっかかる。文子と同世代の三郎が高齢で亡くなってから正二と再婚したようでもないし。どういう答えが出てくるのかなー!
思わせぶりな台詞や伏線、ミスリードを誘っているような展開、続きが出るのかもわかんないのに面白いんです、とほほ。
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特典は20分程度のドラマCD。最初に佐藤くん役の神谷さんが発表されたあと、いつまで経っても田中さんのキャストが出ないなーと思っていたら、ゆんさんのメルマガで独り芝居だと明かされてどきどきしていたのだ。ゆんさん原作・脚本で、しれっとした冷たい眼鏡で、神谷さんですよ。たいへん!
神谷さんが一人で延々芝居するのは楽しかったけれど、別にこれ佐藤くん一人である必要はなかったんじゃないかな。田中さんや詩が目の前にいて、普通に会話をしている流れを佐藤くんひとりのアナウンスで追っていくので、どうしたって説明的になる。普通に田中さんとか詩が出てきて、しょうもないけれど可愛らしい掛け合いを聞かせてくれつつの佐藤くんのモノローグ、のほうが物語として分かりやすく面白かったと思う。
佐藤くんのモノローグの端々から聞こえてくる、不老不死ゆえの悲しさとか孤独とかが、重くなりすぎない程度に響く。一人きりの夜を過ごしたいと願うのはたぶん本音で、ちょっとの強がりもあるのかな。色々と想像させてくれるあたり、神谷ファンにはごちそうでした。
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2011.06.25 Saturday
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田澤孝介「灼熱の月、儚キヲ訊ウ〜下弦〜」@大阪FAN J
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会場に入ると流れてくるのは和田アキ子。そこから渡辺真知子になって、高橋洋子の「心よ原始に戻れ」へ。あとは田澤さんの「ペガサス幻想」とか、しっちゃかめっちゃかなSE。
張られた白い幕には、宇宙にある月が真っ赤に燃えて、それが田澤さんの顔になって瞬きをすると、ライヴタイトルが浮かび上がる、というムービーが流れ続ける。定時開演。
一曲目は新曲なのかな、「新しい世界へ」というフレーズが印象的な疾走感のある明るい曲。赤のインナーの上にグレーのカーデ?あのでろーんとしたやつを羽織った田澤さんが嬉しそうに歌い上げて、「ようこそー!」の挨拶でMCが始まる。
前方だけ椅子を出そうかとか色々考えたけど、寧ろ後方の物販スペースも取っ払って、敢えてスペース取ってるから適当にずれて見え易い感じにしてくれ、とか、MCの時間も沢山とったので曲で語りきれない部分を言葉で伝えたい、とか。言葉で語れないものを曲にして、曲で語りきれないものを言葉にする、という話。
サビが英語だからアレだけど結構ひどいこと歌ってます、と紹介された「True colors」からそのまま「ラブレター」へ。ちなみにMCを挟まず曲が続くのは、メンバー紹介の即興を除けばここだけでした…。
ちなみに「ラブレター」は、結論が出ていない(書いていない)のでラブソングではないらしい。届くといいな、で終わるから。
前乗りして昨夜お好み焼きを食べて12時前に寝て、5時に起きた。暇なので美容院に行って髪を切って、メイクが来てないので自分で一時間くらいかけてアレンジしたけど遠目で見たらやった甲斐のない出来上がりだった、という話とか。確かに一時間かかってるようには見えないふつうの髪型だった。
相変わらずいい歌をうたうし、本人も楽しそう。だけれどなんだかどうもしっくり来なくて、WaiveのAXのときみたいなうまく言葉にしがたい違和感を覚えると思っていたら、本人が「大阪で舞い上がってる」と言ってたので腑に落ちた。なんかふわふわしてるんだな。
今回は都さんに許可を貰った、という前振りから「イニシエ」へ。前回同様に、都さんの奥さんが病気と戦う大切な人を思って書いた曲なのだという話と、そのことに気づいてから自分の中で勝手に歌っていきたい曲になった、という話。本家がライヴ活動してないので、ソロでもないと生で歌うことないもんね。個人的にはRayflowerだとダントツで「花束」がすきだよ!
大阪の暑さを「室外機みたい」と言ってたのが非常に巧いと思った。
坊主頭にしたい、という話。「どう思う?」と客席に聞いておいて、「やめて」の声が上がると「なんで?なんであかんの?」「坊主にしたらライヴけーへんの?」と聞き返す田澤さんの不条理さよ…。
坊主頭で少林寺ばりのオレンジの服着て変なポーズとって「3rdワンマン”ご乱心”」とかやりたいらしい。髪がなくなる前に色々やりたい、禿は遺伝と才能や、だってラルクの人とか禿げてないし、とも言ってた。白髪も増えてきたので「そんな両成敗いらん」とか。
前髪長めでワンレン風になってる金髪が一番好きだけど、まあ坊主もいいんじゃないですか…また若返るんじゃ…。
あとは石井さんと、東京からの移動の際のガソリンスタンドのスタッフの口調がおかしかったという話をしたり、普通のサラリーマンに比べたら大分若いのでよく年下にタメ口きかれるという話をしたあと、「ジェネレーションギャプの話をしたということは」と曲紹介へ。
最近の若いやつは…と思うことができてきた、という話から、皆もそう思うようになってきたやろ?と客席へ。そして「俺勝手に皆を20代後半から40代やと思ってんねん」の発言に客席がものすごくうけてた。MCではこれが一番面白かった。まちがってないよたぶん!
妹に子どもがいる、といういつもの話から、「道標」へ。このあたりだったかな、ものすごく幸せでしかたがない、みたいな顔を何度もしていた。楽しいというよりは幸せ、という方がふさわしいような、満たされた優しい顔。
今日も一泊するので、肉を食って飲むぞ。皆も肉食って、間接的な打ち上げをしよう、と。
18歳の頃にやってた、意味のわからないところでジャンプするバンド・Lu:Reの曲を。当時の自分なりの言葉で書いた孤独の曲、からピアノ一本での「ALONE」へ。
「イニシエ」あたりからじわじわと温まって、かみ合い始めたものがここでうまく合わさったと思う。気合いのアウトプットが過ぎるとどうしてもスロースターターになる感じ。
即興を挟んだメンバー紹介。楽器隊のあとに「田澤孝介と」楽器隊と客席をぐるっと指差して「愉快な仲間達」と紹介して、そのまま「いまここにあるもの」へ。
色々やりたいことがあってやっている、出来ているかは自分が決めることじゃないから、とにかく「やっている」。ただ二週間前の東京ワンマンが終わって、やりたいことやってもうてやばいな、と思った。(たぶんやりつくしたのではないかという焦り、のことだろう)
東京ワンマンは初ワンマンで得たことから、より明確な気持ちを持ってやった。もっとやるべきことがあると、終わってから湧いてきた。曲を書いて、残せるものを残せるだけ残したい。
皆にエネルギーを(たとえば「ライヴが楽しみで仕事が頑張れる」というような気持ちを)与える太陽でいなければならないと思っていたけれど、そうではなくて、皆という太陽が注いでくれたもので光る月なのだと実感した。けれど受け取るばかりじゃなくて何かを発したいから、開演前のムービーの月は燃えている。
ライヴを終わりたくないという気持ちを持てること、共有できることの幸せ。伝えていきます、還していきますって言えること・それが成立することの幸せ。太陽と地球と月の距離が奇跡的なように、皆との距離もまた奇跡だ。というのがライヴタイトルの由来だったよう。月に吠えていたものが、灼熱の月自身になったのはそういうことか。
「要するにありがとうってことです」とちょっと照れたように笑って、「灼熱ノ月、儚キヲ訊フ」へ。この曲いいなー。
われわれ客は田澤さんなり田澤さんがやっているバンドなりを受けて、そこから何かを(かれにとっては)発しているので、やっぱり客は太陽じゃないと思うんだけれど。そして田澤孝介は太陽のすかっとした感じを大いに持っていると思うんだけれど。散々ゴレンジャーで青をやりたがっていたけれど、途中で「俺、赤やわ」と気づいたという話があったので、本人が「月」だと言い出したのはすこし意外。
それだけ多くのものを得られていると思っているのなら幸せなことです。
アルバムをつくりたいんだけれど、ライヴでやるたび歌が変わるのでベストのタイミングを待っている。ジャケットが坊主でも買う?の話からまた坊主ネタ。でも坊主にしてほしいか聞くだけ偉くない?なんとかクリスティのヴォーカルの人いきなり坊主にして事務所の人に怒られてたで。
そこから育毛剤を使うか迷っている、30になったら使うという石井さんの話になり、24のときにバイオテックの無料体験に行った田澤さんの過去の話へ。
毛穴の汚れを見て、独自の洗髪をしていかに毛穴が綺麗になるかを見せる体験なのに、予約の時点で「髪を洗わずに来い」と言われた。更に洗髪した髪を分析した結果を後日知らせてくれるのだが、「禿げます」と断言される。しかもスタッフ全員若い女性で信憑性がない。元禿のおっさんのほうがいい。発毛のためのLEDがついたヘッドホンがものすごくお奨めだというくせに、それ単体では販売してくれない。更に毎日のように電話がかかってくる。「その電話のストレスで禿げるわ!」と言って電話切った、という話。
8年前って「わがままロミオ」とか「春色」の頃か。
「物を伝える立場にあって、誰にも何も伝わらなくていいやと思って書いた」という「新月の心」へ。今回はフルバンドバージョン。この曲に関してはアコギ一本とかピアノ一本の方がより陰気で好きだと実感した。というかこの曲の説明がたまらん。
あとは歌が依拠するところがたまたまない日、みたいなことを言ってたり、「遅刻?俺ロックやし」とか言うのは「ロックに失礼だ」と言ったり、ブログやtwitterは見た人にはそれが全てだから言葉が軽くなりそうで更新が遅くなる、と言ったり。
自分が撮った写真を見て書いた曲です、生きる場所を選べず、命を繋げずに終わるものもある中で、雑草だけれどすごく凛として見えた、という「蒲公英〜風に舞え〜」へ。
綿毛が風に流されて自分の根を下ろす場所を選べないように、子供は親を選べない。そういうのを全てまとめて運命って言えるのは、呼べる奴が呼ぶ、みたいなことを言って、途中で話を切っていた。運命だよねと喜べるひとや、まあ仕方がないと受け入れられるひとばかりではない、ということなのかな。生きることすらままならない場所に生まれたことを、「運命」なんて片付けられないように。
当たり前のことに気づけたことが恥ずかしいけれど嬉しい。ライヴや音源という共有物を持って、大事なものを拾いつつやっていきたい、との言葉で「キミのそばで」になる。メンバー紹介をしたあと、「田澤孝介」「を!」「自分で言っちゃいます」「愛してくれるみなさん、ありがとう」でおしまい。
アンコールは再び張られた幕が下りて、曲がないからと拍手による人気投票。最初の方にやった曲とか忘れたよな、みたいなくだりがあった所為か、一曲目(これ曲タイトルが決まった、とタイトルを言ってたはずなんだけれど聞き取れなかった。たぶん英語で長め)と、あとは同じくらいの拍手が起きたメンバー紹介。両方やろう、と言うことで盛り上がる客席と田澤さん。とは正反対に、ぼそぼそ喋って焦るメンバー。メンバー紹介は即興だから考えてるねんな、とフォローしつつ、「楽しみですね!」とハードル上げ。
最後は、「(言葉を)探してしまうけれど見つからない、ありがとう」でおわかれ。
もうちょっと曲と曲とのつながりを楽しみたいのでMC少なくてもいいんだけど、曲で伝わらないことを言葉で伝えたい、と本人が思って選んでいる以上は仕方がないか。新月とかALONEとかやるたびに暗い・重いと自覚して気を使っているみたいだけれど、その重いのがいいんだよ…。
個人的にただ持ち時間が多い・沢山曲をやるだけのワンマンライヴは意味がないと思っているので、そういう意味では非常に明確ないいライヴでした。
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2011.06.24 Friday
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樋口美沙緒「ぼうや、もっと鏡みて」
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樋口美沙緒「ぼうや、もっと鏡みて」
「愛はね、」の続編。
俊一を思いながら他の男と付き合って、結果うまくいかなかったいくつもの恋を経て、望は自分の中にあるさみしさを他の誰かで慰めることを辞めた。どうしても諦めきれない俊一への思いを抱えて、けれどかれからの愛情は求めず、さみしさと向き合って生きてゆく決意をした。
一方これまで自分に頼りきりだった望の自立に俊一は戸惑っている。自分を好きな気持ちをごまかして、傷つくたびに自分のところに駆け込んできた幼馴染みの精神的独り立ちに、安堵よりも動揺が募る。自分の中にある望へのあやふやな気持ちを敢えてそのままにしているきらいのあるかれが、見ないふりしている感情にどう向き合うのか、がかれらの関係の変化の鍵になる。
篠原の事件のあと、二人の関係は大きく変化した。これまでのべったりだった関係ではなく、一般的な友人の付き合いになった。大学生の俊一と、調理師専門学校に通い始めた望は月に一回くらい、俊一から声をかけて会う程度の関係になった。
望の長すぎる俊一への片思いが終わったわけではないということは、久々に顔を合わせる望の嬉しそうな顔で分かる。けれど、望は自分から俊一を誘わなくなった。友人関係ならばどちらから声をかけても問題ないし、もっと会う頻度が高くてもおかしくないけれど、不器用な望なりの精いっぱいのけじめだったのだろう。それが分かるから、そしてプライドもあるから、俊一は望に必要以上に声をかけない。
久々に会っても、二人の関係はぎこちない。お互いに仲良く穏やかな時間を持ちたいと思っているはずなのに、些細なことで俊一は苛立ってしまう。昔望に酷い態度をとった男の出現と、なによりそれを許してしまう望の態度に俊一は激怒する。その怒りに心配や友情や正義感だけではない、嫉妬が含まれているから言葉のひとつひとつが必要以上にきつくなる。言葉が傷つけるのは、俊一が傷つけるのは望を傷つけた男だけではない。望自身もまた、興奮した俊一の心ない言葉に苛まれる。
苛立っている俊一のもとに、どんどん煩わしい事柄が入ってくる。文芸誌に掲載された俊一の小説を物知り顔で批評してくる、高慢な同じ大学の女・結城。バイト先の出版社が発行している雑誌の部数アップのために駆り出された、かつて望に暴力をふるった篠原。書けなくなった小説。学校でもバイト先でもプライベートでも、俊一は追い込まれて行く。そのどれもこれもが、かれだけの所為ではないとはいえ、かつての自分の行いに対する報いなのがやるせなくて面白い。
俊一が好きだから、「これだけでいい」と望は言った。俊一を好きだという気持ちを抑え、隠し、なんとか終わらせようとしていた望にとって、その気持ちと真正面から向き合えること自体が幸福だった。本人に告げて、それだけで満足だった。これだけでいい・なにもいらないというのは、恋愛対象に男性を含まない俊一に愛してくれと望まないという意味だ。ただ自分が俊一を好きなこと、それが望にとって一番大切でそれ以外はどうでもいいことだった。自分の性嗜好や気持ちに正直に生きること、そこから得られる喜びも哀しみも受け入れて前を向くこと、ようやくかれはそれが出来るようになった。
けれど、晴れがましい望の所信表明は、俊一には別れのことばのように響いた。もう要らない、と言われたような気持ちになった。愛されなくてもいいんだ、という望の気持ちは、愛さなくていい・愛してなんていらない、と俊一に響いた。俊一は要らない、と伝わってしまった。好きだけど要らない、と言われた気になったのだ。
それは勿論俊一の罪でもあった。かれは自分を好きにならなければ構わないという傲慢な条件を掲げて、ゲイだとカミングアウトした望との友情を続けてきたのだ。それはイコール、自分を好きになったら友情の終わりだ、ということだ。俊一が好きだという望は、そういう俊一の気持ちを尊重したとも取れる。
長年望の面倒を見て、世話を焼いて、かれの駄目なところを叱って、かれの傷を慰めてきた俊一にとって、自分に非がある場合でも望に謝罪するのは難しかった。これまでは望がつよく反論したり、自分の意見を口にしてこなかったというのもあるだろう。自立した分だけ自分の意見を持つようになった望は、俊一に説得されて了承したあと、第三者の嘆きに絆されて俊一との約束を破るようなことはなくなった代わりに、真っ向から俊一に主張するようにもなった。それはかれらの関係が、ようやくここへきて対等になろうとしているのだ。追いつこうとする望はいいが、追いつかれる俊一は心の準備ができていない。
それでも俊一なりに望の変化を受け入れて、かれもまた、変わろうとしている。望にとって絶対の兄貴分・保護者ではないものに。それが友人のうちの一人なのか、幼馴染みなのか、親友なのか、それ以外のものなのかは、かれ自身が選びかねている。
自分の答えが出せないくせに、放っておいて望が他の誰かと仲良くなることに俊一は焦る。少年時代の自分が望に関心を持っていたこと、望に触れたくて、他の誰にも触れさせたくなかったことを思い出して、更に慌てる。苛立ちは全て目の前の望に向けられる。衝動的に俊一は望を押し倒し抱こうとしたり、望宛にかかってきた篠原からの電話を勝手に切ったりする。望の気持ちをまったく尊重していないそれらの行為に、望が怒るのも傷つくのも当然だ。俊一の心の中でめまぐるしく動いている自分への感情など知るはずもない望は、俊一が自分を嫌いなのかと言う。それとも自分が悪いのか、と。
論理的で冷静で間違ったことをしない俊一と、人に馬鹿にされたりからかわれたり酷い目にあわされたりする望。痛い目に合っても懲りない望と、気をつけるよう叱り続けた俊一。けれどどう考えたって俊一が悪い。そのことを、酷いことをした俊一も、酷いことをされた望もうまく消化できない。ただ距離だけが広がってゆく。
自分のとった酷い行動によってようやく俊一は少し冷静になり、色々なことに気づく。自分が悪かったのだということ、今回の事件だけでなく、これまでも散々望を傷つけてきたこと。散々叱ってきた望の人並み外れた寛容さに、自分もまた救われていたこと。 そして自分の望への気持ちに向き合おうとする。
しかし、落ち着いて待っていればたどり着いたかもしれない答えを、望は待ってくれなかった。来週卒業して、就職のために東京から九州へ引っ越すのだと望は知らせにきた。相談ではなく、遠い未来の話ではなく、一週間後に迫った決定事項を、俊一に告げに来た。急なことに愕然とした俊一は、最後まで望に対して素直な言葉も、優しい言葉もかけられなかった。
自分と離れても平気かという問いかけは、不器用な望の、無意識の最後通告だった。少なくとも俊一にとっては、そう響いたはずだ。それをかれは拒んでしまった。望が自分にとってどういう存在なのかようやく自覚したばかりの俊一には、かつての関係性の方が色濃く残っており、望に置いていかれること・捨てられることを恐れた。恐れるあまり、先にかれを手放すことにした。ずるい男は、体裁ばかり考えて、結果的に失恋した。
物理的に一人になってようやく、俊一は色々なことと向き合うようになる。自分の小説を盗んだ結城にかつてした仕打ち、かつては自分を可愛がってくれていた篠原への態度、そして小説を書くということ。ひとつずつ昇華してゆく中でようやくかれは、自分が望をどう思っていたのかということと、自分にとって書くというのはどういうことだったのかに行きつく。ようやく鏡を見た「ぼうや」は、最初から自分が持っていたものを見つけることができた。
引っ張りに引っ張ったラストはちょっと駆け足かな。あれだけ散々酷い目にあっておいて、俊一の言葉を素直に信じちゃうのが望なんだろうなあ。もっと疑ったり確認したりはねのけたりしてもいいだろうに、俊一がみなまで言うまえに感動して泣いちゃうあたりが望すぎる。寛容で何度でも人を許す望なので仕方がない。
もうちょっと俊一はひどいめに合ってもいいと思うんだけどさ!ここで望に信用してもらえなくて、もう一冊俊一が頑張って両想いになる、でもよかったかも。
マンボウは何故三億個も卵を産むのか、という問いに、かつての望は「食べさせるため」と答えた。成魚にならない殆どの卵は、他の生物の食料になる。勿論望はそんなことを知らないので、感覚でそう思ったのだろう。
そして今の望は同じ問いに対して、「食べさせたいから」と言った。同じようで少し違うニュアンスが、望の自立と成長を物語っている。ただ与える、奪われるのではなく、自分の意思で与えることが、今のかれにはできる。
いざ付き合い始めてからも、俊一は無自覚に傲慢で嫌なやつだ。むしろこれがかれの本来の性格なのだろう。望を好きだという気持ちを認めて素直になるたびに、化けの皮が剥がれていっているようだ。騙されやすくておひとよしで男を見る目がない望は俊一にしか面倒見られないだろう、という構図から、我が儘で早とちりで傲慢な俊一は望にしか面倒見られないだろう、という構図に変わりつつあるな…。
二巻にわたる長い恋の話、丁寧に書かれたすれ違いからの相互理解がせつなくてよかった。
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2011.06.23 Thursday
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原作:大場つぐみ、漫画:小畑健「バクマン。」13
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原作:大場つぐみ、漫画:小畑健「バクマン。」13
「PCP」の連載と同時進行する読みきりについて、サイコーは自分一人でネームをやりたいと言い出した。「恋太」の原作を兼ねているシュージンを見て、思うところが色々あったようだ。既に二本の連載を抱えているシュージンの忙しさへの配慮と焦り、自分の可能性を試してみたいという欲求。複雑な感情入り混じるサイコーの申し出を、シュージンは受けた。ネーム段階でチェックできるし、自分に遅れをとっているような気になっているサイコーの気持ちも分かるし、おそらく三本の原作を併行させることは難しかっただろう。同じくいくつもの心情が重なって、シュージンはサイコーの提案を快諾した。
追うもの・追われるものが競演する人気作家読切祭は、奇しくも恋愛漫画を考えた作家が多かったため、人気作家恋愛読切祭へと変更される。更に福田の提案により、単なる読切の連続掲載から、人気投票によって順位を出す企画へ変更する。
実際どうなのかはさておき、これくらいのノリと決断力でどんどん企画が動いていくのは魅力的だし、ジャンプらしいとすら思わせてくれる。
イベントの盛り上がりや本人たちの期待は必ずしも良い作品、面白くて人気が出て売れる作品、に繋がるとは限らない。シュージンが出した恋太の原作は服部に駄目だしされ、サイコーが書いた読みきりに対しても服部は微妙な顔をする。それは別に珍しいことではなかった。担当編集に駄目出しされることなど日常茶飯事だし、別に今回だけずば抜けて強く否定されたわけでもない。けれどいつものことも、いつもの状況じゃないときにはひどく堪える。
本当にこのままでいいのか、とシュージンは悩む。恋太を成功させれば原作者としての自分のスキルや価値は上がるけれど、本来の亜城木夢叶の目標に対しては遠回りしているだけなのではないかと、思い始める。
本来の目標とは、作品がアニメ化されて亜豆が主演してサイコーと亜豆が結婚することだ。作品のアニメ化はサイコーとシュージン両方の悲願だけれど、それ以外に関してはサイコーと亜豆の問題であって、シュージンは直接関係がないことだ。
そしてシュージンは揺れる。亜城木夢叶の目標と、名義は亜城木夢叶であれ原作者・高木秋人個人の向上。思いつめたかれは、自分はこのまま、アニメ化にはふさわしくないけれど人気もやりがいもある「PCP」を続けて上を目指してもいいけれど、サイコーはアニメが必要だから、というようなことを口にする。それはつまり、亜城木夢叶の目指すべきものがぶれているということと、サイコー一人のためにアニメ化を狙う必要があるということを意味してように聞こえる。
それを聞いたサイコーは自分の頑固なこだわりがシュージンを苦しめていたのだと思ってしまう。シュージンが意図しているところは、自分の夢のため・亜城木夢叶の夢のためにもっと我儘を言えということだったようだが、サイコーには届かない。そりゃこの状況でそんな分かりにくいこと言われたって分からないよ!お互いの立場への配慮と遠慮、友情、そういうものが仕事の方向性を決めるときに枷になる。「亜」豆と真「城」と高「木」の「夢」を「叶」えるための亜城木夢叶が、迷走し始める。
サイコーに正直な気持ちを聞かれたミホの言葉がとても好きだ。アニメ化も読みきりも他の作家への原作提供もどうでもよくて、ただサイコーとシュージンが仲良く「PCP」を書いてほしい、と彼女は言う。きっとそれは「PCP」じゃなくてもいい。精神的にも肉体的にも無理をしすぎず、楽しく充実した環境での仕事、というミホの願いはあたたかい。彼女がシュージンとサイコーを思いやっていることがものすごく伝わる。亜豆とサイコーに結婚してほしい、というのもいい。それは決して気楽な意見でも甘ったれた感傷でもなくて、至極まっとうな願いだと思う。
けれど反面、それではこのギリギリのところで拮抗して戦い抜く業界は行きぬけないのだろう、とも思う。才能に溢れる天才ならまだしも、亜城木夢叶のふたりには無理だ。そして業界は違えど同じような環境で単身戦う亜豆も、ミホのようには考えないだろう、と思った。
家庭的で温和なミホを伴侶と決めたシュージンと、自分と同じかそれ以上に強い意志で戦う亜豆を伴侶と決めたサイコー。すごくしっくりくる。シュージンが帰ってこないとミホは不安で不安で落ち込んだり怒ったりするんだけれど、亜豆は一ミリのぶれもなく信じて待っているんだろうと思う。ミホが美人すぎないところや、お嬢さんなところも非常に納得できるキャラ設定。
「恋太」に集中するために数日戻ってこなかったシュージンは、ただ原作を仕上げるだけでなく、今後白鳥が一人で制作できるところまで鍛えて戻ってきた。これで「恋太」はシュージンの手を離れ、かれは「PCP」と読切に専念できることになる。
そのあとはシュージンも言う通りの「走れメロス」的、友情を確かめて今後も付き合ってゆくための殴り合い。古すぎて新しい青春のかたちだ。
福田の連載漫画「ロードレーサーGIRI」のアニメ化が決定する。驚いた福田が、普段はつけない敬称までつけて、「趣味のバイクを活かした作品を書けといってくれたあんたのおかげだ」「ありがとうございます」と雄二郎に真面目な顔で言ったところがこの巻で一番好きだった。一頁にも満たないシーンなんだけれど、福田の仕事への真摯さとか、雄二郎への信頼とか、アシスタントも含めて決して一人で描いているわけではないのだということとか、思い知らされる。ここ泣ける…!
人気作家恋愛読切祭によって、チートすぎるラスボスのようだったエイジの牙城の一角が崩れる。書きたいものを書けば大当たりし、アイディアが湯水のように湧き出、手がすらすら書きたいもののかたちに動く、そんなエイジにも苦手なものがあった。新妻エイジは紛れもなく天才だけれど、弱点もあった。
恋愛経験のろくにないエイジが恋愛もの書いて大当たり、おいおい勝てる気がしないんですけど、という展開も面白かったと思うけれど、思わぬところでエイジに土がついたのも面白い。
平丸さんと蒼樹さんの展開も驚いた。蒼樹紅は、仕事をしたくない平丸を釣るための餌だった。かれを動かすための、鼻先にぶらさげられた人参だった。勘違いしているノセられやすい騙されやすいナルシスト、憎めないバカな男、それが平丸だったはずなのに、平丸の身の程知らずの恋は叶ってしまった。
そもそも、仕事が嫌だと言って隙あらば逃げようとする平丸が、本当に蒼樹を好きなのだということ自体驚いた。整った容姿に浮ついた気持ちで言い寄っているだけかと思っていたので、蒼樹と出かけられたこの日を「僕の人生で一番幸せな一日」と平丸が称したのに驚いて、ときめいた。きっかけは不純でも、ほんとに好きだったんだなあ。
しかし蒼樹さんが平丸みたいに突飛でちょっと強引な面もある変わった男が好きなら、中井さんに勝算は最初からなかったわけだ。
蒼樹紅という人参をちらつかせ続けた編集吉田の、平丸への告白もいい。働きたくない、書きたくないと言いながら描いた漫画が面白い平丸は天才だ、あんたの才能に惚れたんだ、と言う、理屈の無茶苦茶さを補って余りある情熱だ。作家の数だけ、編集の数だけ付き合い方がある。
アニメを狙っていたはずなのに、アニメにはならないであろうことがほぼ確実になった「PCP」を続けるサイコーとシュージンは、ある新人の投稿作を見る。ジャンプに掲載するのか、と心配したくなるダークな物語は、まだまだ稚拙だし他の作品の模倣の色も強いけれど、それでも引きつけられる勢いがある。
邪道を行く心理バトルは、シュージンが得意とする分野であり、もともとの亜城木夢叶が目指していたジャンルだった。そして最近のかれらが出さなくなった色を、新人が出してきた。同じ土俵で戦う相手が生まれた、ということになるのだろうか。
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2011.06.21 Tuesday
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原作:Magica Quartet、漫画:ハノカゲ「魔法少女まどか☆マギカ」3
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魔女化してしまったさやかに混乱するばかりの杏子とまどかを前にして、ほむらはその状況を淡々と述べる。憤った杏子の疑問と、嘆くまどかの絶望に応えているだけなのだが、状況と似つかわしくない落ち着いた口調に事情通ぶりたいのかと杏子は激怒する。まどかは泣くばかりだ。
さやかが魔女になったことに対してほむらに非はない。寧ろこちらの世界に関わらないよう仕向けてきたくらいだ。けれどどうしようもない事態を前にして、理不尽な怒りや嘆きを彼女たちはほむらにぶつけてしまう。冷静でいられるほどさやかへの思いは薄くないし、きちんと判断できるほど大人でもない。子供から一歩進んだ、未熟な少女たちだ。
魔法少女の魔女化についての、宇宙だのエントロピーだのというキュゥべえの解説が優れた設定なのか、それとも穴だらけの稚拙なアイディアなのかはわたしには分からない。そこそこよくできた、納得させられる仕組みになっていると思う反面、腑に落ちないところもある。ただそれらを含めて、言ってしまえば個人的にはどうでもいいと思った。
狂った世界があると分かっているけれど、まともな方法ではその狂いが止められない。必要なのは選ばれた少女の肉体と精神、過去と未来と現在の犠牲。ささやかな幸福と、見返りと呼ぶには余りに大きな報い。等価だと思いたくない交換で、この世界は今まで続いてきた。そして今、存続の危機に瀕している。そういうこと。
さやかを何とかして取り戻したい一心で、方法がないのかと問う杏子にキュゥべえは思わせぶりな言葉を向ける。自分の知る限りでは不可能だけれど、魔法少女には未知数の力がある。方法がないわけじゃない、と思わせる言い回しに、藁にも縋りたい杏子は乗った。
けれどやはりどんなに強い思いで縋っても藁は藁で、助かるわけではない。さやかを助けるために協力することを決めた杏子とまどかは、魔女化したさやかに祈るような気持ちで向き合う。少女たちはどこまでも甘くて、滅多に起きないと知っている奇跡が、自分たちのもとで起きるような期待を抱いてしまう。無傷のさやかがどこからか現れて、元の日常を送れるような願いが叶う気がしてしまう。けれどまどかの言葉も、杏子の言葉も、届かない。先に諦めたのは杏子だった。魔法少女になってから良いことがひとつもなかった彼女は、せめてひとつくらい幸福を期待して、疲れてしまったのかもしれない。願いが叶わないこと、祈りが届かないことを知ってしまった。
会ってそれほど時間が経ったわけでもない、「仲の良い友達」だったとは言えない仲のさやかのために杏子は死んだ。ずけずけ物を言う、不器用だけれど優しいさやかを、杏子は無自覚に気に入っていたとは思う。けれど彼女はさやかのため、さやかの孤独のために命を投げ出したというよりは、ちょうどいい死に場所を見つけたのではないか、と思えてならない。自分の行動によって家族を失ってから、誰かのためではなく自分のためだけに生きようとしてきた杏子。けれどキュゥべえから知らされた魔法少女のシステムによって、彼女は自分の先に希望がないことを知ってしまった。奪った食料を食べ散らかして、誰とも協力せずに魔法少女の仕事をこなして、魔女になって始末される。
いきなり知らされた真実に動揺し疲弊していた杏子にとどめをさしたのが、魔女化したさやかがどうやっても元に戻らないという事実だろう。希望も、奇跡も、幸福も、自分(たち)の前には存在しないと杏子は知った。そうなればもう、生きる意味も気力もない。ワルプルギスの夜と戦う名目もない。目の前にいるのは、助からない魔女のさやか。杏子は死に場所を見つけた。つい最近まで普通に学校に通い、友人たちと仲良く日々を過ごしていたさやかより、杏子のほうがよっぽど「ひとりぼっち」で「寂し」かったから。
爆風の中に消えてゆくさやかと杏子。座っているさやかに杏子がお菓子を差し出すと、さやかはその菓子ではなく杏子の手を取る。杏子がほとんどずっと何かを食べていたのは、痩せっぽちの彼女が単純によく食べるタイプだからというだけではなく、たばこや酒のように、自分を強く見せようと虚勢を張るためでもあったのだと思う。別にそんなに思いつめてない、気にしてない、焦ってないのだと。呑気にものを食べるような気楽さと余裕が自分にはあるのだというアピールと、マナー違反な行為による不特定多数への反抗。そして永遠にひとりぼっちでなくなった杏子は、もうそんな虚勢を張らなくていい。
勝ち目のない戦いに杏子を行かせること、すなわち彼女が魔法少女でなくなること、魔法少女の数を減らすことがキュゥべえの企みだった。マミ、さやか、杏子がいなくなり、ワルプルギスの夜を迎え撃つ魔法少女はいまやほむらしかいない。あとは、いつでも魔法少女になれる、まどかだけ。
謎だらけの存在・ほむらについて明かされる10話は、アニメで一番好きだった回だ。
病弱で入院していた所為で、運動も勉強も人並みにできない内気で地味な転校生、それが最初のほむらだ。そしてクラスに馴染めない彼女をさりげなく気遣い、優しくしてくれたのがまどかだった。魔法少女である彼女に危機を救われたことがきっかけで、ほむらはまどかの秘密を知る。明るくて勇敢でしっかりしていて優しい、同級生のまどかはほむらの憧れになる。まどかとさやかがマミに感じた印象を、このときほむらはまどかに抱いている。
ワルプルギスの夜に破れて全滅する魔法少女たちを目の前にして、死んでしまった憧れの少女を目の前にして、ほむらはキュゥべえと契約する。これまでにも時間を操るそぶりを見せていた彼女の願いは、まどかとの出会いをやり直すことだった。
やり直しの甲斐あって、ワルプルギスの夜を倒し、けれどもまどかは死んだ。ほむらは気付く。問題はワルプルギスの夜との戦いではないのだ、と。二回の死別を超えて、彼女は諸悪の根源をキュゥべえに見出す。けれど突然現れた転校生の言葉は、すぐに信じてもらえるものでもない。よく知った仲間、共に命がけで同じ敵に挑んでいった仲間との出会いを何度もやり直すほむらの戦いはあまりにも孤独だ。
同じ別れの場面で、まどかは願う。キュゥべえに騙される前に自分を止めてほしい、守ってほしい、と。ほむらの能力を知った未来のまどかからの願いは、ほむらにとって唯一絶対のものになった。同じ出会い、同じ戦い、同じ死を繰り返し、やり直すほむらの指針になった。
「あなたの為なら私は永遠の迷路に閉じ込められても構わない」とほむらは思う。自分が出口のない迷路に迷い込んでしまったことを知って、それでも構わないと彼女は戦い続ける。どうしようもない執着、妄執、狂気が少女の体に詰まっている。
ほむらの言葉が真実だと分かったときに、絶望して泣きながらほむらに銃を向けるマミさんのシーンと、ほむらがまどかに止めをさすシーンがどうしようもなくて大好き。目に焼きついている。
そのほむらの行動が、もしくは彼女をその行動へと突き動かすほむらの執着が、まどかを絶対的な強さにしたのだとキュゥべえは分析する。他の魔法少女と同じくらいの力しかなかったであろう彼女は、彼女のために何度も時間をやり直すほむらによって、強大な力を得ることになる。
そんなことはつゆ知らず、迫りくるワルプルギスの夜にほむらが一人で戦うことに不安を強くするまどかを、ほむらは抱きしめる。未来から来たんだよ、と泣きながらまどかに話すほむらの様子は切ない。そして同じくらい、事情を知らないものにとっては異様だろう。ほむら自身が言うとおり、まどかの立場にたてばほむらの言動は気味が悪い。けれど、今のまどかはそんな風に思わない。かつて、キュゥべえを遠くから撃ってまどかに号泣したときに抱いたであろう不信感をまどかは持たない。勿論理解できないところはたくさんあれど、ほむらが本当に自分を思ってくれていること、何か大きなものを抱えて必死で生きていることはまどかにも伝わる。ほむらの狂気めいた思いが、まどかを動かした。
アニメのこのシーンのほむらの演技が素晴らしすぎて、漫画を読むたび声が聞こえる。
そしてワルプルギスの夜、襲来。圧倒的な強さを持つ魔女に圧されるほむらの元に、母親からの了解を得たまどかが現れる。
かつて、さやかを元に戻そうと杏子と共にオクタヴィアに向き合おうとしたとき、まどかは自分が卑怯なのではないかと考えた。皆が代償を払って魔法少女になって力を得ている中で、自分だけは人間の普通の女の子のままであり続けることが、彼女を苛んでいた。そのとき杏子は、そういう気持ちで魔法少女になることを否定し、本当に命がけで戦うときがきたら考えればいいのだ、と優しく諭してくれた。
そのときは来るか分からないいつか、仮定の未来だったときが、来た。
全ての魔女を生まれる前に消し去りたい、とまどかは言った。強大すぎる魔法少女になれる彼女の願いもまた、強大なものだった。魔法少女が魔女にならなければいい、そうすれば少女たちがそれぞれの胸に抱いた希望は希望のままで終わる。たとえ願いが叶えられなくても、絶望になることはない。何かを呪いながら、人としての人格を失って暴走して終わるようなことはない。
希望を抱くのが間違いだって言われたら、そんなことないって言い返す、というまどかの言葉が良い。どんなばかげた願いでも、甘ったれた夢でも、希望を持つことは間違いじゃない。希望があるから前を向いて生きてゆけるのだ。
あらゆるものを凌駕したまどかは、単身戦ってきたほむらの過去を知る。彼女がどれほどまでに傷ついて、ぼろぼろになって、それでも自分のために前進してきてくれたのかを知る。それを見た彼女は、ほむらが自分の最高の友達だと知る。全ての人々がまどかについての記憶を失うと分かっていて、それはほむらも例外ではないと知っていて、まどかは彼女に自分のリボンを渡す。
腕が治って演奏する上条と、それを陰から見守る仁美の姿を、客席からさやかとまどかは見る。もうすぐ消えると知っていて、それでもさやかは満足そうだ。嫉妬や恨みから解き放たれた彼女は、自分の本来の願いが、もう一度演奏する上条を見ることだったと思い出す。友人の仁美が上条の特別な存在になったことについては、勿論悔しいけれど、仁美なら仕方がない、と思っている。
さやかは本来こういう子だった。自分よりも誰かの幸福を優先して、陰に自分の努力があることに気付かれなくても笑っている、不器用だけれど優しい少女。いつかそんな部分を理解してくれるひとと付き合って、実は昔あんたのこと好きだったんだよ、なんて上条に打ち明けて、ちょっと上条がどきどきしたり、もしくは「知ってたよ」って優しい目で言い返されたりする、そういう平凡でありきたりで幸せな未来を選ぶこともできた。けれど彼女は条理を超えた力を持つキュゥべえの甘言に流されてしまった。上条が好きだから。ものごとの道理を知らない、多感でばかで、情熱で動く「少女」だったから。
まどかが守った世界は、以前と変わらない穏やかさに満ちている。まどかの家族たちは「まどか」という言葉にデジャヴを感じながらも、両親と一人息子の三人家族で暮らしている。
赤いリボンをつけたほむらは、最高の友達の記憶を持ったまま、今もひとり戦っている。魔法少女が魔女になるサイクルはまどかによって終わらされたけれど、世界のなにもかもが平和になったわけではない。以前よりは温厚そうに見えるキュゥべえと共に、ほむらは戦う。かつてまどかが使っていた弓矢で、敵に向かってゆく。
ラストシーンは、眼鏡・みつあみのほむらがまどかと友達になるシーンだ。あらゆる面で自信のないほむらは、きらきらした何でもできるまどかが優しくしてくれることに戸惑いを覚えている。けれどまどかは笑顔で、自分とほむらは友達なのだと言う。「ずっと」友達なのだ、と。
このラストは泣けた。「魔法少女まどか☆マギカ」において、ほむらとまどかの関係において、「友達」という言葉は非常に大きな意味を持っている。ほむらはおそらく初めて出来た「友達」であったまどかのために、自分を犠牲にして魔法少女になった。自分を全く覚えていない「友達」のために、彼女は何度も苦しみを繰り返す。それを知ったまどかは、最後に、ほむらが「最高の友達」だと言う。それでこれまでのほむらは報われた。まどかを永遠に喪失する悲しみを抱えながらも、まどかが自分を「友達」と称したことで、ほむらはこれからも生きてゆける。姿を失った「友達」と一緒に、彼女は戦う。
傍から見れば、かつて「永遠の迷路」に閉じ込められていたときと同じように見えるけれど、絶対的に違う。今のほむらには出口が見えているし、一緒に曲がりくねった道を行く「友達」がいる。それさえあれば、生きてゆける。
いいコミカライズだった。戦闘シーンに迫力が欠けていたり、ページ数の問題なのか早送り展開になっているところもあったものの、最終話はコミックの方が好きかもしれない。いきなり壮大になってしまって呆然とするほかなかったアニメに比べて、省略気味のコミックの方が自分には合っていると思った。ラストは反則だよ!
***
真夜中に放映されているアニメを見たときからずっと思っているんだけれど、まどかが自分を犠牲にして守った世界で、まどかの面影と寄り添って戦いながらひとり生きてゆくほむらって、まんま「炎の蜃気楼」の直江じゃないですか…。愛情か友情かなんて些細なことは気にしない。
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2011.06.20 Monday
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森薫「乙嫁語り」3
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森薫「乙嫁語り」3
12歳のカルルクのところへ嫁に来た20歳の妻アミルから、かれらの暮らしを追うスミスへと、物語の主役が交代する。中央アジアの民俗に興味を持ちこの土地を訪れたイギリス人のスミスは、エイホン家に居候する前からの、本来の目的であった人物に出会うため、カルルクたちの元から発つことにする。そして待ち合わせ場所についたかれは、眼を離した隙に何もかも、馬も衣料も金も何もかもを盗まれていることに気付くのだった。
エイホン家の暖かいひとたちの間では、輪に馴染んでいたこともあってそれほど感じなかったけれど、見た目も服装も何もかも違うスミスはこの地方ではどこからどう見ても異邦人で、部外者なのだ。部外者であるということは、それだけ付け込まれやすいということでもある。その土地の決まりや常識を知らない分隙が多く、味方も後ろ盾もない。いとも容易く持ち物を盗まれたことで、かれの立ち位置が分かる。
しかし奪われたことによって得たこともある。困惑しているスミスは、同じく愛馬を盗まれた女性・タラスと出会う。快活なアミルや毒舌のパリヤとは違う、あまり口数の多くない、落ち着いた女性だ。彼女との出会いが、スミスを物語の中心へと追いやることになる。
持ちものを無事取り返すことができたスミスをタラスは家へ招く。実際スミスはかれ自身も思っている通り、タラスの愛馬に対して何も貢献していないのだけれど、そのまま終わらせるのは真面目な彼女の気が済まなかった。引かない彼女の意思の強さと職業病とも言えるスミスの知識欲が合わさって、かれらはタラスの家へと向かう。
老いた義母と二人きりのタラスの暮らしは、アミルとカルルクの住居とはまた異なる魅力に満ちている。スミスの目を通して見る新しい世界に、一気に吸い込まれる。専門的な言葉も、具体的な解説もない。雄弁すぎるほどの絵と、スミスの単純だけれど的確な感想が全てを語り尽くしている。
ほかに人手がないにしても、とにかくタラスはよく働き、亡き夫の母に尽くした。自分の息子と結婚しては先立たれ続け、とうとう二人きりになってしまった嫁のことを、母は我が子のように大切に思い、気にかけてきた。彼女が美しく健康で優秀であることを誰よりもよく知っている母は、スミスに彼女と結婚するようにもちかける。スミスが適当に流しても、ごまかしても、真面目に断っても、説得を止めない。そうだこれは説得だ。説得によって、生涯連れ添う相手を決めさせようとしている。
われわれの感覚で言うと奇妙で情けなくて浅ましいことかもしれない。姑が客人に対して嫁をお薦めするなんて、しかも断られても何度も繰り返すなんて、外聞の良い話ではない。そもそもスミスはタラスと出会ったばかりで、彼女のことはよく知らないのだ。知っているのは、よく働くことと、何人もの夫に先立たれた気の毒な身の上であることだけ。けれどそれだけで十分だと母は思っている。まるで犬猫を善良な男に譲るような口ぶりだ。同情でも構わないと、厄介払いや自棄ではなく思っている。それが、自分によくしてくれる義理の娘の幸福のためだと、信じている。 それは沢山の息子に先立たれて追い詰められた老女の盲言ではないし、彼女だけが特殊でおかしい思考の持ち主なわけでもない。これが、彼女たちの「普通」なのだ。男女が連れ添って家庭を作り、子供を沢山生んで家族を増やすこと。年長者にお仕着せされた結婚を始めれば、信頼や恋や愛は後から生まれる。そういう暮らしを彼女たちはずっと前から続けてきた。そこに幸福があった。だから、タラスにもその幸福をもう一度味わわせてやりたいと母は思っているのだ。
文化は、伝統は、常識は、土地や民族によって想像もつかないくらいに異なる。多種多様なそれらの感覚のすべてを理解することはできないけれど、自分達の持つ常識だけが常識ではないのだと、絶対的な正しさを持つ文化なんてどこにもないのだと言うことは分かる。スミスが持つ、おおよそ今のわれわれに近い常識と、かれが中央アジアで肌で感じた常識の間に違いはあるけれど、決して優劣はない。家や親にとらわれず自分で選んだ相手と恋をして駆け引きの末に結ばれることと、親が決めた顔も知らない相手と結婚することのどちらが正しくてどちらが間違いだなんてことは誰にも決められない。決めてはならない。
そういう、ともすれば説教くさくなりがちなことを一切語らずに、その真理だけを「乙嫁語り」は淡々と描いている。
強引で無茶苦茶な母のセッティングもあって、なんだかんだと両思いになってしまったスミスとタラスは、いとも簡単に引き裂かれる。タラスを他に嫁がせたい叔父と、少し前まで二人が結ばれるように画策していた母自身によって、かれらの関係は強引に終わらされる。これから起こりうるいくつもの困難を覚悟して、それでも共に生きようと誓って間もない別れだった。無理やり引き離され、まともな会話すら出来ずに、かれらの恋は終わった。まだ恋とも呼べない淡い始まりの段階で、芽を刈り取られた。
そのことに当然スミスは意気消沈する。憤りを感じる。そういうかれの気持ちを慰めた上で、この土地に住む男たちはそれをおかしいとは言わない。親と言うのはそういうものだ、結婚と言うのはそういうものだとかれらは思っている。それがかれらにとっての「普通」であり「常識」である。スミスにとっては(読者にとっても)不条理極まりない仕打ちだけれど、それはこの土地の部外者の判断基準に基づく感覚でしかない。御しきれない思いだけれど、部外者であるということ、異文化の中に入っていくということは、そういう仕打ちを受ける可能性があるということだ。
アミルとカルルクも、スミスを訪ねにやってくる。しっかりしたちびっこ夫と天真爛漫なグラマー妻の、相変わらず微笑ましいラブっぷりがたまらない。かわいい!!スミスの劇的な恋と並行して描かれる食生活が豊かで、白黒の紙から美味しそうな匂いが漂ってくる気さえする。
ともあれ引き裂かれた悲劇の恋人たち。両想いになるまでの、プロセスが順不同にこんがらがった恋愛が初々しくて可愛らしかっただけに、突然の展開には驚くしかない。何度も結婚で哀しい思いをしてきたタラスは、スミスと幸せになれるのか。それとも彼女もまたこの土地の人間として、腹をくくって他のところへ嫁にゆくのか。
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2011.06.19 Sunday
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小説リンクス 2010年2月号
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和泉桂「暁に濡れる月」第三話
最終話。
貴郁とキスしている藤城の姿を見た泰貴は、藤城との関係を終わらせることを即決する。裏切ったかれへの思いが消えたのではなく、好きだけれどこのままではいられないと思ったのだ。自分が藤城を好きだということと、このまま藤城に心のない快楽だけを与えられて清澗寺の名を利用される状況を続けることは別だ。対等に注ぎ合う好意や愛情による関係が得られないのであれば、暴力じみた関係を続けていても空しいだけだと、本当の意味で泰貴は悟ったのだ。
泰貴が非常にまっとうな人間であることの証明のような展開だった。藤城が自分に恋していないこと、自分の片思いであることを泰貴は知っていた。藤城が事業のために清澗寺の名を持つ自分を離そうとしないことも、藤城自身の口から聞いた。それでも拒めなかったのは、泰貴にとって藤城が初めて自分という人間を見てくれたひとであり、深沢に支配的に抱かれる和貴の姿を見たことで見失いつつあった泰貴の性嗜好を藤城が断定してくれたからだ。自分がどうされたいのか迷っている泰貴を、苛められて支配されたいのだと断言してその通りに藤城は抱いた。そのことが刹那的に泰貴を安心させ、その後長らく苦しめた。泰貴が求める、名前や見た目に縛られない泰貴そのものをただひとり愛してくれる相手との恋は藤城とは出来ない。辛いけれど藤城に別れを告げた泰貴は、快楽よりも精神の安寧やプライドを選んだ。それはかれがまともであり、清澗寺の感覚から外れていることを改めて意味する。
けれどそれに反して、泰貴は自分が清澗寺の一員になったことを実感する。ろくでもない藤城をそれでも好きだと思う気持ち、弘貴を貶めるために繰り返した画策と、利用した肉体。その穢れを自覚して、自分がまさに清澗寺なのだとかれは思う。清澗寺でありながら、清澗寺家という異界を恐れているかれは、どこにも居場所を見いだせない。
屋敷を訪れた泰貴に対して貴郁は、「犠牲が増える」と言った。伏見もまた、弘貴や清澗寺に翻弄される泰貴を痛ましいものを見る慈愛に満ちた目で見て、かれがかれ自身として生きるように願っていた。しかしかれら清澗寺に呑まれた男たちの言葉も、弘貴の親友であり、弘貴を孤立させるために泰貴が体で釣った同級生のまっすぐで純粋な好意も、本当の意味では泰貴を救わない。この瑞沢の爽やかな告白エピソードが好きなんだけれど、その程度ですくわれる清澗寺ではなかった、と言うべきか。さすがに普通の高校生には荷が重すぎる。
藤城との間にあった偽物の恋愛みたいな関係を一方的に終わらせた泰貴に対して、藤城は食い下がる。かれが必死になるのが、清澗寺の名前目的だけではないというのが面白い。歪んだ関心ではあったが元々気に入っていた泰貴の開き直った本性を見て、藤城はかれに更に興味を持った。同じく仮面を外した藤城を、泰貴も嫌いになれない。自分が欲しいならもう一度惚れさせてみろと泰貴が切った啖呵によって、藤城と泰貴の奇妙で、しかしかつてよりよっぽど自然な関係が始まる。泰貴が藤城の事業を手伝い、藤城は泰貴を可愛がる。肉体関係も騙し合いもなく、恋に発展する手前の濃厚な駆け引きがある。
放っておいてもそのうち何とかなりそうな関係は、ひとつの事件によって急激に距離を縮める。弘貴の暴走によって更に警察に睨まれることになった清澗寺家は、ある嫌疑をかけられ、深沢を出頭させる。深沢や和貴にしてみれば慣れたこと、想定内かもしれないが、子供たちは大きく動揺する。清澗寺の名を使って事業を展開している藤城もまた大きなダメージを受け、取引相手からの連絡に追われることになる。普段の涼しい顔ではなく、必死になって対応に追われる藤城の姿に、泰貴は改めて好意を抱く。ひとを馬鹿にして上手上手を行く藤城ではなく、人間味溢れる藤城に惹かれていく。
そして泰貴が刃物を持った男に凶器を向けられたところを藤城が身を呈して庇ったのをきっかけに、素直じゃない二人の男は素直になる。怪我をしてから、自分が他者のために体を張ったことに驚いている藤城は、そこでようやく泰貴への思いを自覚する。泰貴はかれにとって他の誰とも違う存在だった。それを自覚してしまったら、これまでのような付き合い方は出来ない。かれが苦しみながら導き出した真実は、泰貴が一番望むものだった。純粋でまっとうな好意だ。
自分の好意を逆手にとって利用されるのは嫌だけれど、同じ思いを育む相手の事業に協力することは嫌ではない。かれらはこれまでと同じように、けれどまったく違う心情を抱いて共に生きる。
一方、弘貴と曾我は徐々に距離を縮めている。邪険にされてもめげない弘貴の闇市通いと、結果的に曾我の危機を救った向こう見ずな行動が効いている。裏目に出てもおかしくない行動が全部好転するのは、弘貴の人間性のたまものと言うべきか。駆け引きのできない弘貴は、曾我を訪ねる了解を、和貴と曾我の両方から得ることに成功する。たとえ曾我が若干厄介そうでも、和貴が心の奥では反対していても、弘貴はこの恋のチャンスを正攻法で手に入れたのだ。
お坊ちゃまと闇市を仕切る謎の男、少年と青年、色々な障害はあれども、こちら二人の恋は比較的順調だ。全身で好きだとアピールするばかりの拙い愛情表現ではあるが、弘貴の必死の行動によって曾我は弘貴の存在を受け入れた。嫌いではない、とも言って貰ったし、それなりによくしてもらっている。たまに、無意識にフェロモンを垂れ流している弘貴にちょっと惑わされそうになって、自分と弘貴を諌めるようなことも言ってくる。初々しくてかわいい。
深沢の事情聴取とそれにまつわるスキャンダルにも、弘貴はそれほど影響を受けなかった。勿論ショックではあったけれど、学友たちの態度も変わらない。これは前の世代では考えられなかったことだ。醜聞を蒔き散らす冬貴の所為で国貴は頑なな性格になり、和貴は卑屈な性格になった。道貴だって、心ない人間の噂に傷つけられた。けれど弘貴にはそれがない。弘貴の普段の性格や人づきあいによるところも大きいだろうが、深沢と和貴が作り上げた新しい清澗寺と、戦後日本の風潮が影響しているのだろう。時代がたしかに変わっている。
深沢の件とは異なるところで、弘貴も事件に巻き込まれる。闇市の仲裁をしてまわっている曾我の行動が気に入らないやくざ連中が、弘貴を曾我の弱点だと思い込んで拉致をしたのだ。そして弘貴が危険な目にあったことがきっかけで、曾我は自分が押し殺していた弘貴への思いを自覚することになる。
案外簡単にひっついたなあ、という印象。鞠子の知り合いで弘貴を気にかけていたという曾我が、鞠子ではなくその夫、つまり弘貴と泰貴の父親にかつて恋心を抱いていたということは意外だったけれど、こちらもあっさりと明かされた。というよりそれに対しての弘貴の反応があまりにあっさりしているので、大したことではないような気がするのだ。しかし曾我の気持ちを察した上で曾我を客人として受け入れていた鞠子、というのは物凄く想像できる。
清澗寺の血を引くと言う鞠子の夫、弘貴と泰貴の父、曾我の思いびとが誰だったのか、は明かされない。和貴が教えることだ、と曾我は口をつぐんだけれど、果たしていつか和貴が語ることがあるのだろうか。曾我がなぜ隻眼なのかも気になる。
双子の恋がひと段落したあと、深沢と泰貴の会話がこの「暁に濡れる月」のクライマックスだと思った。辛い人生経験を経てから深沢と出会った泰貴は、清澗寺の養子であり、有能な経営者であり、和貴を奴隷のように扱うこの男を当然ながら信用していなかった。けれど反面、世間の汚いところを沢山見てきた泰貴にとっては、得体のしれない泰貴をいきなり受け入れる弘貴や和貴よりも、疑ってかかって泰貴の身元を確認しようとする深沢は信頼できる存在でもあった。家族、清澗寺という不明瞭な絆にとらわれず、つまり何の好意も抱けない役に立たない子供として泰貴を見る深沢の存在は、ある意味気が楽でもあっただろう。
弘貴・泰貴の前では父という立場を崩さない和貴とは違って、深沢は泰貴の前で取り繕ったことを言わない。相変わらずかれにとっては和貴だけが世界で、和貴がすべてで、和貴が大切にしているものであろうと知ったことではないのだろう。その変わらなさに、呆れつつも安堵してしまう。
呪われた清澗寺を終わらせようとしながらも、そのことで帰る場所を失くすものが出てくることを不安に思った和貴は、次の世代・新しい清澗寺をつくりあげることにした。それははじめに養子になった長男・貴郁の役割のはずだったが、かれには荷が重かった。そこで現れたのが、家を出たはずの鞠子が押しつけた弘貴と、十数年を経て現れただ。清澗寺の血を引きつつも、その血に苦しまずに生きている弘貴と、苦しみながらも打ち勝とうとしている泰貴は、鞠子が言った通り「お兄様を救ってくれる」存在になった。
弘貴のお坊ちゃんならではの天然っぷりや善良っぷりは道貴似だと思ったけれど、深沢がかれを冬貴にそっくりだと称しているのを見て鳥肌が立った。ああそうだ、泰貴に無理やり教えこまれた快楽に溺れてもちっとも穢れず、モラルがなく、全てをありのままに受け入れる生き方は冬貴のものだ。瓜二つだということで父の影に苦しめられ続けてきた和貴は、深沢によって解放されたのち、温室育ちの新しい冬貴を作り出したのだ。なんという残酷で、歪んだカルマなのだろう。泰貴には何のことだか分からないだろうが、深沢や伏見には和貴の思いが痛いほど伝わるだろう。かつて伏見が和貴の妄念や狂気が弘貴を育てたと言ったのは、このことだった。
そして、和貴が自分を供物にしてまで夜会に繰り出した理由も明らかになる。華族への風当たりがきつくなる中、なんとか生き伸びるための術だとばかり思っていたけれど、反対だった。華族制度を廃止させること、清澗寺の特殊性や異常さの要素のひとつであるそれを取り除くことが、和貴の願いなのだ。「自由のために」夜会に行くというのは、決してごまかしでも大義名分でもない真実だった。和貴は清澗寺を少しずつ弱らせて死に至らしめようとしながら、新しい清澗寺を作り出そうとしている。清澗寺で生きて死ぬことを選んだ和貴の覚悟が本物だったと思い知らされる。ずっと清澗寺を嫌悪し、怯え、逃げていた和貴が、血と家と向き合って起きた戦いだ。
鞠子の家出や弘貴の父親、曾我の過去などいろいろ気になるところはあるのだけれど、今のところ一番思わせぶりなのは長男・貴郁だろう。帝大に通える優秀さを持つ、一見そつのない長男に見えるかれが果たしてどういう人物で、何を秘めているのか。藤城とキスしながらもかれに特別な好意を持ってはいない貴郁。深沢曰く、新しい清澗寺を作り上げるにふさわしくないとすぐに判明した貴郁。誰にでも秘密がある、と真実を明かさない貴郁。かれの狙いは何なのか。かれは心に何を秘めているのか。弘貴・泰貴と違っておそらく旧い清澗寺の流れを汲むであろう貴郁について語られる日は来るのだろうか。
次世代清澗寺家を担う双子は、第一部に比べて枷が少ない分、恋もあっさりしている。今まで一本一人のところを一本で二人の恋について言及されたから、というのもあるのかな。これまでの障害だらけの恋を思うと、藤城も曾我も手ごわい相手ではないと思えてしまうのが清澗寺家シリーズ。美味しい、もなかったな。今後の物語や短篇・番外編などで補完してほしいところ。
白髪の伏見のおじさま改めおじいさまとか、冬貴とか、油の乗った四十路の深沢さんとかも挿絵で見たいよ!
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