<< 「ブリューゲルの動く絵」 | main | モンデンアキコ「リミッター」 >>

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

web拍手
posted by: スポンサードリンク | - | | - | - |

市川けい「スロースターター」

市川けい「スロースターター」
引っ越して電車通学になったキヨは、毎朝同じ電車に乗ってくる他校の男をなんとなく目の端で追うようになる。ある日降車駅を寝過したキヨが、その男・イノに起こしてもらったことがきっかけで、二人は話すようになり、連絡先を交換して友人になる。

ギャアア甘酸っぱい!正直表紙が地味というか、向かって右のブレザー姿のキヨが学生なのかサラリーマンなのかも定かではない上ちょっと微妙な顔をしていると思うんだけれど、中は凄く良かった。絵もカラーより中の漫画の方が安定している。
引っ越しによって徒歩通学から電車通学に代わったキヨが毎朝乗る電車に、途中から乗ってくる学生がいる。がらがらの車内、いつも同じ車両で、なんとなく向かいにくらいに立っている男。毎朝同じ便の同じ車両に乗る人間というのは少なからずいるもので、キヨもその男も、ほぼ毎日同じ車両に乗り続けた。
そういう、決まった時間に決まった場所でだけ顔を合わせる相手と他の時間に顔を合わせることは不思議な驚きを齎す。偶然帰りの電車が同じだったとき、キヨは少し驚いた。普段一人で乗っているその男が友人と楽しそうに話している姿というのも初めて見たので、それにもなんとなく驚いた。キヨが友人と帰った日に向こうがこちらを見て少し驚いたような顔をしていたので、きっとかれもそう思っていたのだろう。そんなことは、年齢や性別を問わず、そこら中にある風景だ。相手の事は何も知らない、話したこともない、全くの他人。けれど確かにお互いにお互いのことを知っている。なんとなく目で追って、たとえば髪を切ったら内心驚いたりする。気づいたら会わなくなっていて、そういえばあの人最近見ないな、なんて思ったりする。そういう関係。
そこから一歩踏み出すことになったのは、眠っていたキヨが声を感じて目をさましたとき、その男が困った顔で自分を覗き込んでいた瞬間だ。既に降車駅や乗車駅を知るとはなしに知っているため、男はキヨが降車駅を過ぎても寝ていることを気にかけて声をかけてくれたのだ。しかも全くの無関係なのに、降車駅を過ぎてから気づいたことを本気ですまなそうに詫びている。そうやって話しかけられてようやく、キヨは自分がこの男の声を初めて聞いたことを自覚した。
多分この瞬間から、恋が始まっていたのだろうと思う。それを自覚するのはもっと先だけれど、見ているだけだった相手から話しかけられたことが、キヨの中のスイッチを押した。

そしてかれらは話すようになる。最初はキヨからの礼だったのだろう。そのあとは普通に、毎朝おはようと挨拶をして、隣に座って、どうでもいいことをひたすら話すようになる。その中でキヨは男がイノという名前の同級生であることを知る。毎朝何ということもない話をべらべら話しながら、キヨは男の連絡先を知りたがっている自分に気づく。けれど別段連絡先が必要な理由もないから、踏み切れない。なんで、と言われてしまったら言葉に窮するのが怖いのだろうか。必要もないのに知りたがっている、聞かれたときに理由を聞かれるのが怖い、そういう意識の仕方は普通の友情とはちょっと違う。
引退した部活の顧問から期間限定で朝と放課後の練習を頼まれた時も、キヨは最初にイノのことを思う。帰宅時間がずれれば、かれと同じ電車に乗れなくなるから。かれに会えなくなるから。キヨにとって何か自分に変化が起こったときに、一番に考える相手がかれだ、というのがいい。勿論他の友人には直接関係・影響がないというのもあるだろうけれど、キヨにとってイノはすぐに頭に浮かぶ存在になっているのだ。
けれどかれはイノにそれを言えない。しばらく部活を手伝うから時間が遅くなるんだ、とそれだけのことが言えない。一緒の電車に乗ろうと約束したわけじゃないから、と自分にブレーキをかけてしまう。かれを意識しているからさらっと雑談として言うことが出来なくて、結局何も言わずに会えない日が増えていく。
約束したわけじゃないのにかれと一緒に通学することが前提になっている、のはしかしキヨだけではなかった。いきなり翌日から朝も放課後もキヨと会わなくなったイノは、自分が何か余計なことを言って避けられたのではないか、キヨの身に何か通学できないようなことが起きたのではないかと徐々に不安になっていった。
一緒に通学している気でいたのはお互いで、意識しているのもお互いだった。ようやく連絡先を交換した二人は、一緒に行けない日は連絡をすることに決めた。自分だけが思っていること、その気でいたことが、ここで共通認識になった。
そのあとも朝夕一緒に話したり、メール交換をしたり、キヨの学校の文化祭にイノが友人と行ったり。男子高のイノと、共学のキヨ。二人の性格や環境の違いとよく似たところが出たエピソードはどれも可愛らしい。特に格好良いわけでもない、すごく何かが出来るわけでもない、けれどそれなりに得意なこともある、そういう普通の男子高生としてのそれぞれの日常がいい。その日常の中で、けれどいつでも心のどこかに相手のことがある。会っている時間と会っていない時間の両方で相手のことを考えて、気持ちが膨らんでいく。
恋愛経験の殆どない高校生ならではの駆け引きの出来なさ、相手の反応を想像して怖くなって行動を自粛してしまう不器用さが焦れったい。そして恋をろくに知らないかれらは、自分が相手に抱いている気持ちが恋なのだとすぐに気づかない。一緒にいて楽しい、もっと相手を知りたい、のは友情でも同じだ。けれど相手に恋している女の子の存在に胸がざわついたり、相手に恋人が出来るかもしれないと考えて胸が苦しくなるのは友情じゃない。他の友人なら祝福できるのに、かれの時だけできないのは友情じゃないからだ。友情じゃなければ何なのか、の答えにはまだ行きつかない。ひとつずつ段階を経ることでしか恋にたどり着けない不器用さがいじらしい。

前半はキヨ目線で描かれていた物語は、後半イノ目線に変化する。文化祭でキヨに恋している少女を偶然見かけてしまったイノは、それ以降キヨとうまく接することができず、キヨを避けてしまう。電車の時間をずらして、そんな自分が嫌になる。
前半のキヨと後半のイノの違和感のなさを見ることで、あまり描かれなかった前半のイノもまた、キヨのように小さな変化に一喜一憂していたのだと想像できる。電車で一緒になるかれをなんとなく気にかけていて、勇気を振り絞って声をかけて、次第に仲良くなれたことを喜んでいたのだろう。いきなり電車で会えなくなったときは焦って、連絡先を聞けたときは嬉しかったのだろう。
だから、今回描かれない後半のキヨが、描かれているイノと同じようなことを考えたのだということも想像できる。いきなり会えなくなったことに焦って、自分がなにかしでかしたのではないかと落ち込んで、其の中で恋を自覚し、かれに直接話をしようと決意した。同じ日にお互いが相手の降車駅でずっと待っている、だからずっと会えないなんていうのはベタな展開だけれど、これまでの蓄積があると凄くリアリティがある。丁寧な気持ちの揺れが生っぽくていい。あああ切なくて甘酸っぱくて可愛くて好きだー。
「言わないとキスしちゃうぞ」「んじゃ言わない」の可愛さにじたばたする。殺す気か!
web拍手
posted by: mngn1012 | 本の感想(BL・やおい・百合) | 10:08 | - | - |

スポンサーサイト

web拍手
posted by: スポンサードリンク | - | 10:08 | - | - |