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椎名軽穂「君に届け」9

椎名軽穂「君に届け」9

爽子の目標は、風早に好きだと伝えることだった。意識しはじめてから止まらなくなった風早への恋心を、ひとことで表すのならばそれはやっぱり「すき」という言葉に尽きるだろう。だからいつかその言葉をきちんと言えるようにと、爽子は思っていた。
そして彼女は秘めていた思いを、非常に中途半端な形で風早に伝えることになった。

泣いている爽子をからかうクラスメイトを前にして、風早は爽子をすきだと言った。「俺 黒沼のこと すきだよ」と、人目も気にせずに言った。まさかの展開に、その場にいた誰も、風早の「すき」の内実を追及できなかった。貞子相手に、しかもこんな人がいるところで、風早のような人気者が恋の告白をするはずがない。でも、風早の真剣な瞳を見るにもしかしたら本気なのかもしれない。まさかそんなわけがない。ギャラリーが困惑する中、その場の空気を戻したのは、当の爽子だった。
「そんな言い方したら誤解されちゃう」と、風早からの「すき」が友情のものだと疑わない彼女は、かれに恋している自分がうぬぼれて誤解してしまうことを回避するために、言った。風早が誤解される相手は、爽子にしてみれば、爽子本人だった。しかしそれは、聞いていた男たちにしてみれば、風早が爽子に恋をしていると自分たちが誤解するんじゃないかと、爽子が危惧しているようにきこえた。誤解されたくないのだと、うぬぼれているようにすら聞こえた。それは風早にしてみれば、爽子が、自分の気持ちを迷惑だと思っているようにしか聞こえなかった。
触れるぎりぎりまで近づいていた手が、いきなりひっこめられたような気分。

失恋したと思い込んで去る風早を、爽子は追った。なぜ追っているのかも、もし風早が立ち止まったら何を言うべきなのかもわからずに。自分が発した言葉が与えた影響も、知らずに。
結局立ち止まったのも、口を開いたのも風早だった。「黒沼は俺がすき?」とかれは聞いた。それは爽子が一番伝えたかった言葉で、だから彼女は思いっきり頷いた。大好きなのだという意味をこめて、力いっぱい。言葉にはできなかったけれど、抱えていた思いを少しだけ出せたその次の瞬間、「俺の「すき」と黒沼の「すき」は …ちがうね」と風早に告げられてしまう。
自分の恋心を悟られた揚句、同じ感情を相手が持っていないと宣告された、そう爽子は思った。けれどそれは仕方がないことだと、彼女はその言葉を肯定する。その爽子の返事が、自分の告白に対する返事だと思った風早は、彼女の前から去った。

焦れったくてもどかしくて、苛々する。けれどこの苛々こそが、少女漫画の、「君に届け」の醍醐味だと思う。かれらには「すき」という言葉がとてつもなく重く、難解だ。
家族へのすき、食べ物や洋服へのすき、女友達へのすき。彼女たちの世界は「すき」にあふれていて、だからこそ判断を迷ってしまう。「別に嫌いじゃない」と「誰よりも特別」という意味のことばが同じだなんて、皮肉。

食い違ったのは風早の言葉の少なさと、それを上回る勢いで言葉の少ない爽子の卑屈さが原因だ。これまで学校生活であまりいい思いをしてこなかった爽子は、愛されることや輪の中に入ることにまだ慣れていない。「遊んでもらった」「優しくしてもらった」という、感情が抜け切れない。過去が原因で、「こんな自分なんかが」という気持ちが拭い去れないのだ。
それは彼女のこれまでを思えば非常に気の毒なことだけれど、爽子と対等に友人付き合いをしている親友たちはそれを叱ってくれる。爽子のことが大好きな彼女たちは、たとえそれが爽子自身であっても、爽子を悪く言ったり大切にしないやつを許せないのだ。ネガティブがデフォルトになっている爽子が、それゆえに多くを求めず、目の前にあるものだけで満足しようとしているのが哀しいのだ。
そして爽子は何かを欲することを覚える。欲しいものを欲しいと宣言すること、そのために努力することを知る。遅れてきた思春期真っ只中の彼女が、ついに自分から手を伸ばす。

青過ぎるほど青くて、恥ずかしくて、でもこのいじらしさが癖になる。
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posted by: mngn1012 | 本の感想 | 00:49 | - | - |

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