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2009.07.25 Saturday
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三浦しをん「風が強く吹いている」
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三浦しをん「風が強く吹いている」
ある夜銭湯に出かけたハイジは、パンを万引きした男に出くわす。その時、逃げる男の走りに魅了されてしまったかれは、自分が暮らす竹青荘へ犯人を連れてくる。その犯人である走が同じ大学だと判明すると、ハイジはかれを半ば強引に、破格の家賃プラスまかない付きの竹青荘に入居させてしまう。
そして晴れて仲間になった走の歓迎会の途中、ハイジはひとつの野望を語る。箱根駅伝に出よう、と。
面白かった!萌えるではなく、燃える。萌えもするけど、とにかく燃える。
いくらオンボロとは言え、学生寮としても破格の竹青荘には、ひとつ落とし穴があった。アオタケと呼ばれるその寮は実は、かれらの通う寛政大学の陸上部の部員寮だったのだ。つまりかれらは入寮すると同時に、問答無用で陸上部に入部することになる。これまでの間まったく活動がなかっただけなのだ。
アオタケで暮らしているのは走を入れて十人になったばかり。箱根駅伝は十区間を一人ずつが走るため、必要最低人数が十人となる。ハイジにしてみれば、走は降ってわいた奇跡的な存在だったのだ。かれのうつくしい走りだけでなく、その存在そのものが、ハイジには福音だった。
しかも元々アオタケには部屋は九室しかない。なぜその寮に十人が暮らせるのかと言えば、走と同じ入学生に仲良しの一卵性双子がおり、かれらが一番広い部屋に二人で住んでいるからだ。これまた奇跡的に、十人の部員が揃ったことになる。
偶然はそれだけでは終わらない。
いきなり駅伝に出ようと言い出したハイジのことばを、皆はまともに受け止めない。ハイジと走が高校時代に陸上で全国的に素晴らしい成績を残していたとは言え、あとは寄せ集めの集団だ、勝てるわけがないとかれらは笑って流そうとする。たとえ入部と引き換えに安値で暮らしていようとも、ハイジにそれぞれ恩義があろうとも、じゃあやりましょう、優勝狙いましょうと言えるような話ではない。
そういうかれらに向かってハイジは滔々と語る。きみたちは既にそれぞれ長距離選手に必要なものを持っているのだ。オタクである王子の粘着性、山道を歩いて高校に通っていた神童の脚力、黒人留学生のムサの秘めたる身体能力などなど、無理矢理だろうがこじつけだろうが、かれは熱弁した。乗り気でない住人達を何とかやる気にさせるための言い訳がましい台詞だが、なかなかどうして説得力がある。奇跡的な布陣がそろったのだとばかりに息巻くハイジの言葉に納得させられる。
ニコチャンも陸上経験者だったとはいえ、七人はズブの素人だ。そういうかれらが一年弱で箱根駅伝に出られるなんていうことはまずもってあり得ない。物語だからこそできる設定だというほかないが、しかし、何故かそういう苦しさは感じなかった。ありえないはずなのに、ありえてしまうことに違和感がない。
個性豊かな登場人物たちが漠然とした駅伝のイメージしかないまま練習を始める。ハイジの的確な指示でそれぞれが力をつけてゆく過程で、キャラの性格とアオタケでの立ち位置や関係性、駅伝の大まかなルールが明らかになる。そうなればあとはもう、走るだけだ。
かれらはひたすら走る。鍛えぬいた肉体だけをたよりに、走る。一人で走る時間は二十分にも満たないけれど、その間、かれらは誰にも干渉されない。同じ地区を走る他の選手との接戦や駆け引きはあろうとも、根本的には自分が少しでも早く、少しでも理想に近づけるように走るだけだ。
緊張の中で仲間から襷を受け取って走りだしたかれらは、さまざまなことを考える。タイムは?順位は?自分はほんとうに本調子なのか?試合経験がほとんどないものはとくに、余計なことに気を取られてしまう。しかし走り出すと、一年弱のトレーニングが活きてくる。
自分のペースを掴みはじめると、心は走りにまつわる瑣末なことから解放される。解放されて、かれらが抱えることが心を占拠し始める。仲間にも言えなかった悩みや、コンプレックス。いつも心のどこかにあったそういうものと、かれらは向き合うことになる。手足は勝手に動いてくれる。誰も邪魔をしない環境の中、普段は目を逸らして深く考えないようにしていた自分自身の問題が顔を出す。
一人ずつ丁寧に描かれるこの心情描写がとっても良かった。家族、恋、友情、自分自身の性格、あまり見たくないそういうものとこの時ばかりは真っ正面から向き合うことができたかれらの心は多少なりとも軽くなる。かなりの接戦を続けて、体は疲弊しきっているはずだ。そういう描写もあるのに、なぜか走者たちがひどく満たされて、まるで天にのぼってゆくような状態であることが伺える。経験したものにしか見えない景色があるのだろう、一握りの人間にしか到達できない高みがあるのだろう。かれらは走っているそのとき、確かにそこにいた。
舞台を先に見たときにも感じた、葉菜子の「走る姿がこんなに美しいなんて、知らなかった。これはなんて原始的で、孤独なスポーツなんだろう。」という台詞は秀逸だ。道具もない、ただ、普段車が走っているような道を筋肉だけをたよりに走りぬく。その様子は原始的で、さびしくて、崇高ですらある。そのときだけは誰にも近寄れない。たとえひとつのコースを共有するほかの走者であっても、好きな女の子であっても。その絶対的なさまをとてもよく表した台詞だと思う。
ハイジと走は異なる人生を歩んできた。しかしかれらはともに走ることに焦がれ、なにもかもを捧げ、そして一番大切だった走ることに裏切られた経験を持つ。それでも走ることが止められなかったかれらは、これまで自分たちが必死で追いかけた基準以外のものを知る。親や教師から叩き込まれた、誰よりも早く走って、一番を取ること、ひいては試合で勝つことを唯一無二としていたかれらは、それだけがすべてじゃないと知る。走よりも前にそれを知っていたハイジは、何度も根気よく走に言い続けていたけれど、走がそのことの本当の意味を知ったのは、かれが走ってからだった。走はようやくそれを体得したのだ。速くではなく、「強く」なること。肉体も精神も本当の意味で強くなって、走りと向き合うことを知って、再起する。
走ることへのつよい思いは再生する。これまでよりも強く、深く、確固たるものとしてもう一度かれらのもとにやってくる。そしてもう、離れない。
とても清々しい小説だった。挫折した男たちの再生、立ち止まっていた男たちの復帰、そういうことがいい具合に青臭く描かれている。結果を知っていてもページをめくる手が止められなかった。
以下は舞台版と比較して思ったことなど。ちなみに舞台の感想はコチラ。舞台版との大きな違いは二つかな、
舞台ではマンガ大好きな王子が、走りながら何度も名作マンガやアニメの名台詞を口にしていた。それらの言葉にかれは勇気づけられていたのだ。更に、一区を走りきったときには、有名なスポーツマンガの主人公たちの名前を羅列し、「僕、君たちと同じスポーツマンになったんだ」と感慨深げに語りかけていた。このあたりは客席の笑いもとれていたし、インドアでスポーツ自体が好きじゃないオタクが、マンガを愛したままスポーツマンになったというなかなか感動できるラストでもあった。しかしここは原作には全くない。多少マンガネタは言うものの、駅伝中にはさっぱり言わない。
脚本のひとは思いきったことをやったな、という驚きと同時に、すごくいい脚色だったとも思う。パンフレットを買わなかったので、そのあたりのことが語られているのかいないのかも分からないのだが、あれはあれですごく面白かった。
榊が竹青荘に来るシーンも原作にはなかった。原作では榊の影はそれほど濃くなく、どちらかと言うと藤岡の方が印象に残る。舞台では榊は走に頻繁に嫌味を言ったり、最終的には感情をぶつけていたけれど、原作ではそれほどでもない。舞台でも結局かれらは真の意味で和解できなかったけれど、小説は更に輪をかけて和解していない。榊は本音をぶつけるようなことをしないし、走もまた、かれにあまり強い思いを抱いていない。
舞台は舞台、小説は小説。そして映画も楽しみになってきた。
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2013.05.19 Sunday
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