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2013.04.19 Friday
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「ノンフィクションW 蜷川幸雄〜それでも演劇は希望を探す」「トロイアの女たち」
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「ノンフィクションW 蜷川幸雄〜それでも演劇は希望を探す」WOWOWで放送された45分のドキュメンタリー番組。蜷川幸雄が演出し、日本とイスラエルで上演された舞台「トロイアの女たち」の製作風景や稽古のようすなど。「トロイアの女たち」は敗戦後、さまざまな困難を味わう女たちについて描かれた、エウリピデスのギリシア悲劇だ。その舞台を演出するに際して蜷川は、日本人・イスラエルに暮らすユダヤ人とパレスチナ人という異なる民族・言語の俳優たちの共演を実施した。日本とイスラエルの国交60周年を記念した政策に参加する条件に、火種の絶えないユダヤ系とパレスチナ系の共演を掲げたのだという。日本に来たときから、刺激的な試みだと嬉しそうに興奮しているユダヤ系と、仲間から非難されるかもしれないと複雑そうに笑うパレスチナ系の俳優の間には何とも言えない溝がある。ワークショップではちょっとした会話で論争が起こってしまったり、ガザ地区への襲撃が起きたりする。しかし、大きなプロジェクトに参加し、それを成功させようとする俳優としてのかれらの意識と、傍から見れば少し過剰なまでに気を使っている蜷川の手腕によって、次第に三つのグループは大きなひとつのカンパニーになっていく。三つの言語が登場する舞台のため、それぞれの言語を別の人物が翻訳したものが台本になっている。日本人の日本語、ユダヤ人のヘブライ語、パレスチナ人のアラビア語。ヘブライとアラビアの両方を理解する俳優から見ると、同じ台詞でも訳し方に大きな差があるのだと言う。俳優たちが揃って本を読み合わせて初めて、そのままの台本ではだめだと明らかになる。そしてパレスチナ俳優たち自らが、本を書きなおすことになった。言葉がばらばらなら感情表現もばらばら。蜷川さんが外国から来た俳優たちにことさら「自由に」と言っていたのには、おそらくいくつかの理由があるのだろう。本人が言っていたように、些細な一言で信頼を失ってしまうことを恐れていたから。「自由に」動いてもらうことで、日本人があまり多く接したことのないかれらの自然な姿、日常的なふるまい、感情から素直に出る動作を知ることができるから。それらを統一せずに一つの舞台に乗せることこそが、狙いだったのだろう。蜷川が自分たちの芝居について何も言わなかったことが淋しかった、とあとで日本人以外の俳優たちが語っていた。それは上述の通り信頼を失うことを恐れていたという理由もあるだろうが(こういうところがよくもわるくも非常に「普通の」「真っ当な」人であるところだと思う)、日本の演劇を見続け・作り続けてきた蜷川の意見によって、かれららしさを消すことを恐れた部分もあったのだろう。稽古中、日本人俳優たちには厳しく指導し、それを必ず毎回翻訳して他の国の俳優たちにも伝えさせたと言う。それによって蜷川幸雄の狙い、舞台についての意気込みや解釈を、他のふたつの国の人々にも伝えることができる。演劇によって何かが変わるとは思わない、と蜷川は言う。ただ、最初の気まずい状況のときでもガザの襲撃のときでも、芝居を作るということ・演劇をするということについて謙虚であったかれらの姿に、希望はある。***「トロイアの女たち」作:エウリピデス演出:蜷川幸雄こちらもWOWOWで放映されたもの。先に上述のドキュメンタリーを見ていたので、話のおおまかな筋も、三つの言語からなるコロス(合唱舞踏団)が同じ台詞を三回ずつ繰り返すことも知っていた。面白い試みだと思う反面、全部の台詞を三回ずつ聞かされるのは辛いのでは・中だるみしてしまうのではないかとも考えていたのだが、全くそんなことはなかった。面白かった。蜷川さんが演出した舞台で、トータルで見てこの作品以上に好きなものは沢山あるけれど、この作品は演出に関して全く文句がない。ギリシアのメネラオスの妻ヘレネが、トロイアの王子パリスと駆け落ちしたことで始まった戦争は、トロイアの敗北というかたちで幕を閉じる。老いた王妃ヘカベを始めとして、夫や子供を失った女性たちは、奴隷としてギリシアに連行されようとしている。あらすじと写真付き相関図の記載された公式ページがとても便利。トロイの木馬とかそういうことは知っていると更に楽しめると思いますが、取り敢えず終戦直後の敗戦国、ということだけ分かっていればいいと思う。ひとことで言えば、冒頭にあった「死んだものも生き延びたものも哀れ」という台詞が全てを物語っている作品だった。戦場に赴いたまま帰ってこない、遺体を回収されることも弔われることもなく、浄められることもなく彷徨い続ける父や夫や息子。夫を殺したギリシアに、嫁ぐことを命じられた寡婦。神に誓った独身・純潔を否定され、慰み者になる巫女と、それをどうしてやることもできない母親。ただ勇敢な男の息子だと言うだけで、終戦後にも関わらず、無残な死を与えられる子供とその亡骸を十分に弔うこともできないまま連行される母、そしてなけなしの持ちものでせめて飾り立ててやろうとする祖母。戦争は終わったのに、女たちの地獄はまだ続く。寧ろ、母国を追われ、知らない土地にばらばらに連れてゆかれ、ここからまた地獄が始まるのだ。そしてそれは、彼女たちの父や夫や息子が奪われ、母国が破壊されてしまった以上、終わることがない。ほぼ出ずっぱりのトロイア王妃ヘカベ(日本語とヘブライ語では「ヘカベ」だけどアラビア語では「ヘコバ」に近い音なのもおもしろかった!)は白石加代子。白石さんの出ているお芝居見るときは大体白石さんの調子がいまひとつだったんだけど、これは素晴らしかった。王妃の気迫や誇り、母や祖母としての慈しみと悲哀、杖なしで歩くこともつらい老いた身の物悲しさなど、色々なものが交ざり合っている。そのヘカベを囲むのが、大勢のコロスだ。日本人、ユダヤ人、パレスチナ人と三つの民族に分かれたコロスは順番に同じ台詞を繰り返す。映像で見ていると、日本人が話したあと、ふたつの民族が順番に話すときに字幕が出る。なので日本人コロスが言った聞きとれない部分が(数名で声をそろえて叫ぶので、どうも聞きとれないところが出てくる)あとの二回で補われる。次々繰り返される耳慣れないふたつの言語は、音楽と合わさって、蜷川が言ったように「祈り」めいてくる。戦争の発端となったヘレネに和央ようか。散々話題だけ・名前だけが出ていて後半ようやく登場するヘレネは、この舞台で異質なまでに着飾っている。つややかな黒い髪はまっすぐのびているし、きちんと化粧をして真っ赤な口紅をひいている。露出度の高い真っ赤なドレスも相俟って、彼女がいかに場違いであるかを雄弁に語る。メネラオスに弁解をする彼女の言葉がどこまで本当なのか。トロイアの女たちは元凶であるヘレネを心底憎んでいるので当然全てを嘘だと断定するし、裏切られたメネラオスも信じない。けれど彼女の言葉が保身と快楽のためだけの嘘だと決めつける証拠も、見ている我々にはないのである。和央さんだけずっとドスの聞いた口調で話していてすごく違和感があったんだけど、彼女はいつもこうなの…?それとも敢えて選択した芝居なの…?この芝居で唯一腑に落ちなかったのが彼女のヘレネだった。出番少なくてほっとした…。コロスの台詞には、トロイアやギリシアの土地についての台詞がたくさん含まれている。どこの山がきれいとか、どこの水がいいとか。ギリシア神話の話も混ざって、彼女たちは朗々と謳いあげる。普段あまりこういう本筋と関わらない台詞には興味が持てないんだけれど、台本の言葉が(翻訳された言葉が)美しい所為もあってか、とても魅力的だった。残酷なまでに言葉がきれい。「哀れな祖国」に別れを告げ、哀れな女たちの地獄が始まる。非常に興味深い芝居だった。
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2013.02.03 Sunday
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DOCMENTARY OF AKB48 NO FLOWER WITHOUT RAIN 少女たちは涙の後に何を見る?
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SSAでの前田敦子卒業宣言から実際に卒業するまで、指原莉乃の恋愛報道からHKT48への移籍、増田有華の恋愛報道から活動辞退、平嶋夏海・米沢瑠美の活動辞退、総選挙、じゃんけん大会、東京ドームで発表された組閣を中心としたドキュメンタリー映画。予告にあった映像が本編で使われていないのはいつものこと。あみなとちかりなの合コン騒動などは完全にカット。処分がなかったから扱えないのか、AKB48にとって大したニュースではなかったのか。扱われるのと扱われないの、どちらが惨めなんだろう。前田敦子のコメントは一切ない。彼女が卒業宣言をして、総選挙を辞退して、東京ドームと劇場公演で去っていく様子は大きく扱われて、皆がそのことについて語る。けれど彼女の言葉はない。そのことがまた、前田敦子という存在を大きくする。いつから考えていて、あの時言おうとどの瞬間に決めてたのか。AKBに入ってから卒業するまで何を考えていたのか。謎が沢山残って、だからこそあっちゃんだなあ。基本的にあっちゃんは言葉がうまくなくて、肉体言語の人だと思う。総選挙の最後にサプライズで現れた彼女は、最初から泣いている。感じることが沢山あって、きっとその1割も言葉にできていない。「優子がきらきらしている」と満面の笑みで泣いて、全力で抱きつく。それがすべて。やっぱり前田敦子は特別な人だ。中継番組の時間の都合もあったのだろうが、コメントを遮られた優子の不憫さ。それが大島優子なのだろうなあ。彼女はそういう、誰も悪くない不遇みたいなものをずっと味わってきた。味わい続けている。それをある程度引き受けて、左右されない強さや存在感を得た。あっちゃんも優子も、全く種類の異なる逆境の中で咲く花のよう。優子は既にAKB48の第二章を、少し距離をおいて見ている。渦中にいると言うよりは、それをうまく動かすことを考えている。あっちゃん卒業についてこじはるが、「直接聞いてないけど女の子ばかりのグループなので知ってた」と言ったのに笑った。まりこさまが辞めて欲しくなくて何度も止めた、というのは意外なような納得なような。見た目のせいで一番クールで冷静に見える彼女だけれど、実際はものすごく女子校脳。円陣の時点で泣いているたかみなとみぃちゃん。みぃちゃんの、アイメイクが落ちないことを意識した涙がとても好き。女の子のプロ。東京ドーム最終日、あっちゃんのドレスにたかみながビジューをつける。どこにつけようか迷った彼女が、「心臓に」と左胸に石を置いたところで涙が出た。どういう絆があれば、こういう気持ちが生まれるんだろう。総選挙悲喜こもごも。まりこさまの「潰すつもりできてください」は使って欲しかったなー。ゆきりんの上にいってしまったまゆゆが戸惑いながら、「ごめんなさい どうしよう」と言うところが好き。逆転勝利した相手に対して一番言ってはいけないことが「ごめんなさい」だと思うんだけど、まゆゆはそれを本心から言ってしまう。そういうコミュニケーションが未熟な彼女をゆきりんは知っているから、負けた彼女がまゆゆを励まして導く。かわいい。選抜に入ったことで大喜びするうめちゃん。うめちゃん元々可愛かったけど前髪切ってさらに可愛くなったなー。見るたびかわいくなっていく・きらきらしていくので見ていて楽しい。一方、選抜落ちしたあきちゃは号泣する。アンダーガールズでの撮影で真ん中に立って笑って、ポーズを撮って、終わったら泣き崩れる。彼女に駆け寄るのはスタッフの女性だ。彼女より順位の低い人間が慰めるのもおかしな話だし、実際他のメンバーもこれまでとこれからの自分のことで喜怒哀楽が渦巻いていて、人のことどころではないのだろう。終始むっとしていたことを後々Google+で詫びていた光宗薫の裏側もあった。楽屋へ向かう通路で泣き始めた彼女は崩れおち、立ち上がれなくなる。研究生として発表された瞬間から異様なまでの期待と注目を浴びていた彼女は、他の研究生の比ではないプレッシャーの中にいた。入らなければまずい注目度も、決して抜きんでた人気があるわけではない現状も、彼女は知っていただろう。脆い人なんだろうとは思っていたが、想像以上に思い詰めやすく、脆い人だったんだな。非常に好きな見た目だったので、彼女が去ったことは残念だったけれど、彼女のためには早めに下がれたことは良かったのかもしれないと思った。恋愛報道も続く。指原の時だけ「過去の恋愛」の「過去の」の部分にアンダーバーが引かれていて笑った。報道直後のラジオの、「ご飯も食べられなくて」みたいな長々としたコメントが非常に嫌いだったのだが、HKTに移籍になった彼女の対応は凄いと思った。自分が来ればその分HKTのメンバーの枠が削られる。公演に出る、選抜になる、そういう枠が狭まってしまう。よーいどんで一緒に始めた仲間の中に、大きな傷を負った大物がやってくるのは嬉しくない。そういうHKTのメンバーの気持ちがわかるからこそ、「指原を利用してください」と彼女は言う。涙をためた目で必死に笑って、怪訝な眼で自分を見つめて、明らかに「仕事として」の挨拶をする少女たちと対峙する。そのあとにししのところに行って泣いたのも印象的。かつてAKBからSKEに移籍した「地方組」のメンバー。色々な苦労があっただろうにししも、黙って指原の髪を撫でる。少女たちは既に、言葉にしない優しさを知っている。言葉にできないこと、自分で消化するしかないことを沢山知っている。それでも誰かの傍にいたいこと、誰かの存在が嬉しいことを知っている。かつて恋愛禁止条例に反して解雇処分になったのち、再びオーディションを受けてAKBに戻ってきた菊池あやかは「処分が軽い」と語る。菊池にしか言えない言葉だし、菊池が言うからこそ響く言葉でもある。自分のことと比較して、明らかに「人によって」処分が大きく異なることを見た彼女の複雑な心境がいい。それでも、指原も辛い思いをして苦労したんだろうと感じた彼女は、黙って見ていることにしたのだと言う。「納得した」「割りきった」「理解した」とは言わないところが好き。平嶋・米沢の解雇については、前田や高橋と同期である一期生の平嶋とほか一名の解雇、みたいな感じの扱いだった。とがちゃんが大泣きしているのが非常に印象的。なっちゃんがインタビューに答えている。当時のことについては、学校を卒業したあと時間を持てあまして、寂しさを埋めようとした、と語る。今は専門学校に通っていて、夢を持った仲間たちと一緒にいるのが楽しい、とのこと。「私たちの恋は応援されない」と真顔で言うたかみなや、「今出会った人は運命の人ではないと思って諦める」とあっさり言うまりこと違い、にこにこしながら学校について語るなっちゃんは少しふっくらしたように見える。どちらが幸せなのか。ゆったんの活動辞退は、発売前日の週刊誌を見せられるところからカメラが回っている。元々すべてのドキュメンタリーが「ガチ」だなんて毛頭思っていないけれど、さすがにこんなにあっさり話は進まないでしょう…。この脱退は、ミュージカルの稽古が始まったあたりから、大学デビューのような痛々しさを持ってはしゃぎ続けるゆったんの「ちょうどよかった」みたいな割り切りというか開き直りが透けて見えて、後味がよくなかったですね。辞退といえばNMB48の城ちゃんも出ていた。あっちゃんの卒業宣言のあと号泣して、あっちゃんに抱きついていた城ちゃんは、その数カ月後にNMB48を辞めることになる。チームMセンターだった彼女が、心身ともに疲れ果てて参っていたことはGoogle+などで明らかだったし、年齢以上に幼く見える彼女がとても可哀そうだと思っていた。城ちゃんもインタビューに応じている。辞めたことについて、「皆が自分をセンターだ・それにふさわしい逸材だと言ったけれど、自分でそのことがわからなかった」「気づけたら良かったのかも」と笑う彼女からは、子供みたいな笑顔の中に老成が見え隠れしてせつない。印象的だったのは、東京ドームの組閣の時のチーム4のメンバーだ。一人一人名前が呼ばれてチームに振り分けられて行く中、それどころじゃないと言いたげに彼女たちは泣き続ける。チーム4がなくなってしまうこと、にひたすら泣いている。全てが終わったあとにみなるんが、自分たちはA,K,Bのチームに並べなかった、だからチーム4はなくされた。その悔しさを持って、今後のチームで一番になれるように頑張ろう、と言っていた姿に、遅ればせながら彼女がきちんとキャプテンだったことを知る。それを思うとこないだのリクアワの「走れペンギン」1位は一層感慨深いですね。じゃんけん大会でぱるるが優勝した瞬間、思いっきり飛びあがって喜んでた島田が好きだよ…。チーム移籍組の話も少し。総選挙で選抜落ちしたあきちゃと、伸び悩んでいるさえちゃん、劇場最多数と言われて満足できないまりやんぬ、大人になりたいと願うらぶたんなど。はるごんは特に何もなかった。あと兼任組も特に何も触れられず。海外移籍に比べればインパクトは下がるけれど、結構大きなニュースだったと思うんだけどな。SKE大量卒業宣言とか、HKTの卒業とかそういう姉妹Gのニュースもほとんどなかった。あっちゃん卒業に尺を取り過ぎたかな。ともちんが卒業宣言。彼女の経歴を思えば少し遅いくらいかと思っていたら、実際結構前から考えていたけれど「あっちゃんのように」踏み出せなかったのだ、と言う。そこに触発された部分もあるのかな。やっぱり前田敦子はふつうじゃない。前述通りチームS・K兼任決定、そのあとの体調不良など扱われてもおかしくないエピソードがあるじゅりなは、それらについてほとんど全くと言っていいほど触れられず、ただただ終盤にフィーチャリングされていた。さすがです。かわいいのでいいです。みぃちゃんのこと。人目に晒され続けることが仕事であるはたちの女の子の剃髪を、すべてパフォーマンスだとは言わないけれど、やっぱり峯岸みなみはただものではないな、と思った。映画公開直前に、恋愛報道が出た峯岸みなみは報道について否定も肯定もせず、「誰にも相談せずに」坊主にして、youtubeの謝罪動画の中で「AKBに残りたい」と泣いた。どの部分がどう影響したのか、彼女の処分は「研究生への降格」だった。人によって処分が違う、というのは映画の菊池あやかの言葉を待たなくても、皆が知っていることだ。以前米沢・平嶋の際に言われた「イエローカードが何枚目か」ということも全くの嘘ではないだろう。ただそれだけを真に受けると指原はとっくにレッドカードだと思うので、貢献とか商品価値とか契約とか色々あるでしょう。わたしは48Gに関しては、少女たちのドラマを搾取している自覚がある。誰が残っても誰が去っても、それなりに裏読みして楽しめる悪趣味な楽しみ方をしている。なので正直みぃちゃんが残っても去ってもいい。面白かったのは、オリメンたちがこぞってみぃちゃんを庇ったことだ。既に蚊帳の外のあっちゃんはさておき、映画の中で「恋愛をしたら辞めるしかない」と真剣な眼で語った高橋みなみが「頑張ろう」とめったに更新しないブログに、みぃちゃん宛のメッセージを書いた。女の子たちにとって、親友とクラスメイトの罪は同じではない。好きな子の過ちは庇うし、嫌いな子の過ちは攻め立てるし、どうでもいい子の過ちには興味がない。そういうところを見て48Gを楽しんでいます。あとナイナイ岡村がラジオで言った「罰が大喜利になってきている」はけだし名言だなあ。次に何か報道された子は、坊主以上のことをしなければ残れない。坊主レベルのことをすれば残れるかもしれない、ということでもある。恋愛報道でどんどんメンバーが辞めていく。解雇、辞退、移籍(という名の左遷。少なくともあれは左遷だと皆思ったはずだ。指原がそれを栄転に変えたのだ)。握手会での謝罪やファンの涙、怒り。そういうものを何度も見てきている彼女たちは、それでも恋をして、行動に出てしまう。実際に報道されて自分の事件になるまで、自分の番になるまで、そのことの実感を持てないのだろうか。ばれないと思うのか、何とかなると思うのか、考えないようにしなければ生きてゆけないのか。人よりも沢山荷物を背負っている彼女たちは、人より少ない支柱しか与えられない。そのことに立ち向かえる子は多くない。だからこそ、想像しないように、自分の番が来ないように無意識下で祈って、罪を犯すのだろうか。難しい。映画としては2012のほうが見ごたえがあったけど、直前のみぃちゃんの報道もあって、色々考えさせられる作品でした。
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2013.01.25 Friday
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「テッド」
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入口にはこいつ。かわいいこと言ってるけどビール瓶持ってる。何の説得力もない。親切。監督・脚本:セス・マクファーレンテッド(声):セス・マクファーレンジョン・ベネット:マーク・ウォールバーグロリー・コリンズ:ミラ・クニス***友達のいない少年ジョンにとって、クリスマスプレゼントに貰ったテディベアが唯一の友達だった。孤独な少年の祈りによってテディベアは命を得る。いつでも一緒だった二人の友情は、27年経った今も変わらない。しかし付き合って四年になるジョンの恋人ロリーの懇願をきっかけに、ジョンとテッドの同居生活に変化が訪れる。ひどい映画だった。何の教訓も蘊蓄もない、下品で口が悪くて性格も歪んだ、けれどむちゃくちゃ面白い映画だった。どうでもいい!幸せ!ただ下ネタ盛り沢山なので、見に行く相手を間違えると気まずいことになりそうです。映画館内がバカ笑いに包まれていた。35歳のジョンはレンタカーの受付として働いている。しかし仕事に対して意欲はなく、遅刻や嘘の早退・サボリも多い。テッドをハッパを吸いながら映画を見てははしゃぐ日々。友達ができず、テディベアと二人きりで遊んでいた子供の頃と殆ど変っていない。恋人のロリーは大手企業で働き、同僚に彼氏のキャリアを馬鹿にされても上司から口説かれ続けてても、ジョンを一途に愛している。もうすぐ付き合って四年になる彼女は、そろそろジョンと次の段階に、つまり結婚にこぎつけたいと願っている。抱きしめると「I love you」と可愛い声で言うテッドは、かつてアメリカ中を揺るがした有名人だった。テレビに出まくりちやほやされたかれは、今は平凡に暮らしている。売人からハッパを買い、DVDボックスを買い、日がな一日怠惰で充実した日々をおくっている。とりあえずテッドが超どうしようもなくて超かわいい。字幕で見たのだが、ちょこちょこ聞きとれた言語はその数倍下品でどうしようもなかった。テッドとずっと一緒にいたジョンも口が悪くて品がなくて、ああ面白い。テッドと同居を解消して落ち込むジョンを、彼氏がイランに強制送還されて別れたという職場の女性が自分の話を打ち明けて元気づける。「俺達はお互いに毛深い友人を失った」と真顔で返事するジョンのせりふに笑った。ジョンと別れたロリーについて「今頃『ブリジットジョーンズの日記』でも見て泣いてる」と茶化すテッド。その頃実際ロリーはBジョーンズを見て家で号泣していた。ロリーさん高スペックキャリアスイーツ()!一端ぼろぼろになったあと復活したテッドが、顔が引きつった状態のままで会話して、「後遺症が出たから介護してくれる?」というボケをやって見せたのもなかなかブラック。アウトだらけ。テッドといるとジョンはだめになる、とロリーは思っている。いい年をした男が人形遊びをするなんて、という言い方を彼女はしたけれど、別にテッドが生身の人間でも同じことだっただろう。テッドの提案をジョンは拒めない。遊ぼう、という誘いに何度でも乗ってしまう。子供のまま大人になってしまったのだ。だからテッドとの同居を解消したあとも、かれらの関係は何も変わらない。ロリーとの再三の約束を裏切ったあと、ジョンはテッドとの別離を決める。テッドに怒鳴り、絶縁したいと願う。自分が駄目になったことをテッドの所為だと言うジョンに、当然テッドも反論する。何も強制したわけではない、拒否権がある中で選択したのはお前だ、と。その通りだ。ジョンほんとどうしようもない!クズ!でも嫌いになれない!というのがテッドとロリーと客の総意なのではないかしら。今35歳のジョンが少年だったころ、つまり80年代のアメリカの文化に詳しいともっと楽しめるんだろうと思った。フラッシュゴードンとか名前しか知らないよ!それ以外にも名作のオマージュというかパクリとか、なシーンやキャストがたくさん。ノラ・ジョーンズは本人役で出てくるし。少年時代のジョンとテッドがETごっこしているのも可愛かった。後味をひかない、というのはとても楽ちん。馬鹿笑いして、ハッピーエンドで、おしまい。
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2013.01.18 Friday
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「じゃじゃ馬馴らし」
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作:ウィリアム・シェイクスピア翻訳:松岡和子演出:蜷川幸雄キャタリーナ:市川亀治郎ペトルーチオ:筧利夫ルーセンショー:山本裕典ビアンカ:月川悠貴***蜷川シェイクスピア23弾、オールメールシリーズ5弾。らしい。WOWOWでみた。美しく可憐な資産家の娘ビアンカは色々な男から求婚されているが、彼女の父親はビアンカの姉であるキャタリーナが結婚しないことにはビアンカを嫁に出さない、と宣言する。困り果てた求婚者たちは、口が悪く気がきついキャタリーナに、金目当ての結婚を望むペトルーチオをあてがおうとする。強引なペトルーチオと無理やり結婚させられたキャタリーナは、次第に夫によって馴らされてゆく。シェイクスピア作品を見てきた中で学んだことは、「台詞の細部はあんまり気にしない」ことです。聞きとれなくても仕方がない。そのスタンスが正しいかは知らないが、そのことに気づけてからとても楽しめるようになった。とりあえず人間関係がややこしい。妹ビアンカと結婚したい二人の男。恋仇であるふたりは、金目当ての結婚を願うペトルーチオを姉キャタリーナにあてがうことで、ビアンカの父から再び娘に求婚するチャンスを得ようと画策する。更にビアンカには、家庭教師を利用して近付くことを狙う。一人の男は自身が音楽教師となって屋敷に入り込み、もう一人は優秀な若い男を紹介することで家と近付こうとする。その若い男というのが、ビアンカに一目惚れしたことがきっかけで下男と立場を入れ替わった金持ちの男、ルーセンショーだ。かれは忠実な家庭教師のふりをして男に近付き、ビアンカの家庭教師の立場を得る。ビアンカに求婚したい男は二人ではなく三人だった。更にルーセンショーに頼まれて立場を入れ替わった下男も、ビアンカに求婚する。家柄を利用してビアンカの父親に近づくのだ。求婚する男は四人。美女ビアンカを狙う恋の5角関係、じゃじゃ馬キャタリーナと輪をかけて口のたつペトルーチオの奇妙な夫婦、更にはルーセンショーに扮した下男と主人の男との駆け引き。それだけでもややこしいのに、その物語すべてがある王に捧げられる劇中劇なのだ。その王はただの王ではなく、酔っ払っている間に王に仕立て上げられた乞食なのである。ネーム多すぎ!しかも劇中ではべつにその壮大なドッキリについての顛末は語られないまま。どうなるの?おじさんかわいそう!「じゃじゃ馬馴らし」の「じゃじゃ馬」は、気がきつすぎて求婚されない女性・キャタリーナのことだ。そして彼女を「馴らし」はじめるのは、突如現れて1週間しないうちに結婚することになったペトルーチオである。出会った瞬間からキャタリーナを褒めちぎり、彼女に返答の隙を与えない剣幕でものを言い、拒否の瞬間を与えないまま結婚に持ち込んだかれは、そのあともその勢いで彼女を馴らす。食べ物をぎりぎりまで与えずに飢えさせてから食事をちらつかせ、ドレスを作らせてから引き裂き、彼女を追い詰める。もはや調教だ。何を言われても反論していたキャタリーナは次第に反抗することを止め、夫に従うようになる。老いた男も夫が少女だと言えば少女相手の接し方をするようになる。じゃじゃ馬ケイトは飼いならされ、最終的にはどの妻よりも夫に従順な女性となった。放送後のインタビューでも、女性蔑視ととられることのある作品だと話題になっていた。時代も国も違うしどうでもいい意見だと思うが、最終的に逆玉狙いの男のSMばりの調教で従順になりましたおしまい、なのは物語としてそんなに面白くないなーという感じ。最後にキャタリーナのどんでん返し復讐があるとか、賭け金欲しさに夫妻が結託していたとか、そういう笑えるオチが見たかった。シェイクスピアに何を言うんだ私。というのも亀治郎さんのキャタリーナの序盤〜中盤の気の強さが凄く良かったのだ。もともと亀治郎さんの演じる気のきつい女、おきゃんな女が好きなので、キャタリーナもすごく良かった。頭がよくて口がよく回って、美人な妹と比較され続けてきた所為で人間の醜い部分をよく知っていて、きっと彼女には世界がバカに見えているんだろう。そういう強さと、評価されなかった・愛されなかった・悪意ばかりを向けられてきたものならではの弱さや諦めが共存している。哀しいけれど可笑しい、魅力的なキャタリーナだ。ぴったり!随所に歌舞伎の手法も取り入れて、思わず大向こうが飛んじゃうシェイクスピア!頭の良さと、知性のあるものならではのシニカルが普段から滲んでる亀治郎さんならではだなあ。彼女と張り合うペトルーチオ、筧さんもすごくよかった。というかこちらもぴったりすぎるほどにぴったり。以前みたお芝居の筧さんがぴんとこなかったんだけれど、こちらは良かったー。まあとにかくしゃべるしゃべるしゃべる。ペトルーチオの言葉は、伝えることを目的にしていない言葉だ。相互理解を求めていない、ただ相手を制して黙らせる、自分のいいなりにするための言葉。だからかれはとにかく喋る。相手の反応は気にしない。黙っていればそれでいいし、黙らないのなら黙らせる剣幕で喋るだけだ。そういう勢いと、コミカルな表情・アクションが暑苦しいほどに存在した。ふたりがやいのやいの言ってるのがおもしろくて、それが物語の醍醐味なんだろうと思う。ビアンカはかわいくてちょっとワガママで、自分がきれいなことを知っている。月川さんはべつに飛び抜けて女顔ではないと思うんだけれど、ときどき本当の女の子のように見えて、ぼんやり「胸のない人だなあ」と思ってしまった。そりゃないわ。ルーセンショーの頭のおめでたい感じ、若くて男前で家柄があって自信に満ちているものならではの在り方もいい。山本くんは評判がいいのは知ってたんだけど納得。結局この人殆ど苦労してないね…お坊ちゃんだからね…。ビアンカは結局ルーセンショーの顔が良かったから、最初から彼のほうばかり見てたんでしょ…お似合いのふたりですことっ。にぎやかに、ばかばかしく、きかざって、下卑ているけれど知的。蜷川さんらしい舞台だなー楽しかった。
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2013.01.16 Wednesday
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「ベッジ・パードン」
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作・演出:三谷幸喜夏目金之助:野村萬斎アニー・ペリン:深津絵里畑中惣太郎:大泉洋グリムズビー:浦井健治ハロルド・ブレット/サラ・ブレット/ケイト・スパロウ/ウィリアム・クレイグ/弾丸ロス/ミスタージャックほか:浅野和之三谷幸喜生誕50周年企画の舞台の中で唯一地方公演がなかった作品。WOWOWで見た。***日本で英語教師をしていた金之助は、語学を学ぶため、ロンドンでの生活を始める。新しい下宿先でかれは、英語が堪能で社交性にあふれる惣太郎、親切な大家のハロルドと厳しい妻サラ、そしてイースト・エンド出身で訛りのひどい使用人・アニーと出会う。ロンドンに蔓延する人種差別からくる人々の蔑視や、イギリス人と対等に会話する惣太郎への劣等感、日本に残してきた妻から一切連絡がないことに金之助の精神は疲弊する。そんなかれを励ますのは、昨日見た夢の話ばかりするアニーだ。アニーと恋人関係になった金之助は、次第に彼女と生きてゆく覚悟を決める。下宿先が店じまいすることをきっかけに、かれは帰国後妻と別れ、アニーと結婚することを誓う。しかし実は金之助を妬んでいる惣太郎が、かれの妻からの手紙をすべて隠していたことが明らかになる。妻は金之助を愛していた。そのことを知った金之助が涙を流すのを見たアニーはその場を去り、ギャンブル好きの弟の借金返済のため、娼婦となって働く決意をする。アニーが去ったあと、後悔して部屋の中でひきこもる生活を送る金之助。そんな時かれは、アニーの夢を見る。これまで夢で見た沢山の話をしてくれたアニーは金之助に物語を書くよう奨める。「次はあなたの番」と。夏目漱石の若き日の物語。この後かれは有名すぎるほど有名な小説家になるのだが、今はまだ小説家になるという意識も、小説を書くこともしていない。3・11のあと、笑えるもの・楽しめるものを、ということで書かれた作品のようだ。確かに非常に軽快で明るい物語だが、後味の悪さは50周年企画の中でも上位に入ると思う。救いがない…。物語の軸になるのは金之助とアニーの恋だ。外国で味わう孤独、会話がうまくできないことへの焦り、相手が何を言っているのか理解できないことへの不安、周囲からの奇異の目・嘲笑・蔑視。ロンドンでそれらを味わう目になった金之助を支えてくれたのは、がさつで何度も同じことで叱られ、いつまでたっても訛りがなおらないアニーだった。イギリス貴族に見下されて落ち込んだ金之助は、同じように悩みやコンプレックスを抱えたアニーを抱きしめて言う。「君は、私だ」と。アニーと付き合いだしたことで、少し金之助は明るくなる。日本に妻子がいることをなかなか言い出せないという問題はあれども、まっすぐなアニーとの時間はかれを楽にしてくれる。そしてついにかれはアニーと生きてゆくことを決めるのだ。金之助のプロポーズを受けたアニーは、彼女がこの時唯一持っていたものを手放すことになる。それが弟、グリムズビーだ。二人きりの家族だった弟を、アニーはどんな時だって可愛がっていた。金の無心にも応じ、我儘も聞いてやった。グリムズビーも姉を慕い、姉には頭が上がらないように見えた。ふたりはすごくいい家族だった。グリムズビーは金之助を最初に会ったときから気に入っていたし、金之助もグリムズビーを受け入れていた。しかし二人の結婚が決まったとき、グリムズビーが現れて金の無心をする。これまでのような小遣いではない、アニーの年収よりも多い額だ。ギャンブルで作ってしまった借金で、それを返済しなければグリムズビーは殺されてしまう。期限は迫っているが、アニーにも金之助にも払える額ではない。そのことも分かっていたであろうグリムズビーは最後に一つ提案をする。弾丸ロスという犯罪者がアニーを気に入っており、かれのもとで仕事をするならグリムズビーに金を出してくれると言う。グリムズビーは必ず借金を返して連れ戻すと言うけれど、それを簡単に信じられるわけがない。アニーはグリムズビーの提案を断る。自分は金之助と結婚して日本に行くのだ、と弟を拒む。アニーは縋る弟の手を放し、金之助を選んだ。しかしそのあと、惣太郎が金之助宛の手紙を隠していたことが明らかになる。アニーのいる前でその手紙をかき集め、読んで涙する金之助を見たアニーはそっと部屋から出て、グリムズビーの願いをかなえる。そのあと彼女は病院に運ばれ、金之助に教わった日本語の歌を歌いながら死んだ。金之助は日本に帰って小説家として名を挙げる。なんとも救いのないラストだ。アニーが金之助に教わった歌を歌っていたというのは、彼女が最後までかれを愛していたということを意味しているだろう。妻子がいたことを黙って自分に手を出し、離婚すると言った直後に妻の手紙を読みふけっていた男を愛していた。愚かな弟の尻拭いをさせられ、娼婦として死んでいった。「恋愛もの」と銘打たれておきながら、本筋の恋愛はひどいものである。ハッピーエンドでもバッドエンドでもない、何とも言えないいやな終わり。ただ本筋以外のところ、ふたりの恋以外の話については興味深いエピソードがたくさんある。イギリス人と話すときは緊張してうまく言葉が出ないのに、アニーと話すときは楽に言葉が出る、と金之助は言う。なぜか彼女といるときは力を抜いて話せるのだ。そう言ったかれに、アニーは理由を教えてくれる。自分を「下に見ているから」だと。緊張する必要がない、うまく立ち回る必要がないと思っているから、自然に会話ができるのだ。田舎の生まれ、労働者階級のアニーへの蔑視は続く。金之助に英語を教えるクレイグは、アニーを「本物のロンドン子」と言いながら、彼女が出したお茶に一切口を付けなかった。惣太郎や金之助ですら、アニーの訛りをからかった。訛りがひどく、彼女が「I beg your pardon?」と言うと「ベッジ・パードン」に聞こえるアニーを、金之助は「ベッジ」と呼んだ。そこには親密さや優しさが溢れているけれど、一歩間違えると嘲笑のようなものも見えてきそうだ。アニー(ベッジ)の深津絵里は好演。とっても可愛いのに下品で空気が読めなくて知性がなくて、けれど頭はきれる。しっかりした姉であり、切ない恋をする女性でもある。がさつな発声すら魅力的。金之助も差別される人間だ。英語を勉強中のかれは、大家夫妻や他の人とたびたび会話が通じないことがある。そのコンプレックスを、同じ日本人でありながら流暢に英語を話す惣太郎の存在が増幅させる。更に、通りがかりのイギリス人たちが金之助に奇異の目を向け、かれを見て笑う。その繰り返しに、かれは次第に心を閉ざしてゆく。萬斎さんの金之助は、ぎこちなさと脆さがあって素敵だった。実際ロンドン留学をしていた萬斎さん自身のエピソードも含まれているらしく、なまなましかった。しかしこの髭と服装が、どうしても世界のナベアツを彷彿させる…。しかし惣太郎もまた、差別される側の人間であった。秋田の生まれであるかれは、東京で暮らしても訛りが抜けず、からかわれ続けてきた。金之助と二人のときも決して日本語で話そうとしなかったのは、そういう理由があったからだ。英語は非常に堪能なかれだが、やはりロンドンでは黄色人種を理由に差別を受けることもある。日本にもイギリスにも居場所のないかれは、「イギリス人になってやる」と吐き捨てる。大泉洋っていままでまともにお芝居を見たことがなく、テレビもみないので「気づいたらすごい人気だった人」という印象なのだが、人気が出るのもわかるね。笑いも怒りも悔しさもいい。何年遅れの実感だ、という感じではあるが。三者三様のコンプレックス、差別。生きる上で感じる不自由さ、コミュニケーションの困難さ。そういうものをコミカルに、けれど辛辣に描いている。グリムズビーは浦井健治。ウラケンは与えられる(もしくは手に入れる)役の幅が広くて、非常に恵まれた俳優なのだ、と最近つよく思い始めた。へたれもろくでなしも好青年も、真面目もおばかも演じている。似たようなタイプの役ばかり来る役者が多い中で、幸せだなー。どれもこれもいい味出してるし。あと妙に歌わされるよねこの人ね。分かるけどね。無駄に格好良い「ロンドン橋落ちた」でした。それ以外の11役を浅野和之。下宿先の主人夫妻、妻の妹、犯罪者とそれを追う警察、金之助の教師とかれの友人である男女、元軍人にエリザベス女王に、犬。ロンドンに溶け込めずノイローゼになっていく金之助が「イギリス人がみな同じ顔に見える」と思い詰めた顔をするのだが、みな同じ人がやってました、というオチ。笑えるけれど、背筋がひやっとするような恐怖もある。途中から「どうせまた浅野さんがやるんだろうな」という良い意味での脱力感を持って新キャラを受け入れることができるのだが、最初はけっこう驚いた。驚いたし、一瞬気づかないキャラもいた。客席の後方だったら気づかなかったかも。おばさんステキ。夫に出て行かれた大家の妻は、自分の考えを「言わなくても(夫には)分かると思っていた」と言う。けれど彼女は、夫がずっと前から自分と別れることを考えていたと知らなかった。夫が言わなかったから、分からなかった。言葉にしなければ分からないことは沢山ある。けれどその言葉にする、という段階でわれわれは躓いてしまう。アニーは昨日見た夢の話ばかりする女性だった。最後にそれが実は夢の話なのだと明らかにするのではなく、最初に「こんな夢を見た」と言って話してほしいと金之助は言うが、彼女は断る。そうすれば皆聞いてくれなくなるからだ。夢の話ばかりするのには理由があった。タイミングがつかめない、同じことを繰り返し言われても忘れる、皆の言っていることが理解できない。アニーにはたびたびそういうことがあった。だからアニーが何か話すたび、周囲の人間が彼女を否定し、訂正し続けた。そこでアニーは夢の話をする。夢の話なら、誰にも否定されないからだ。彼女が見た夢は彼女だけのものだから、彼女しか知らないから。だから「夢の話をするな」と言わないでほしい、とアニーは言う。それを止められてしまったら、彼女にはもう話すことがなくなってしまうのだ。(落ち込んでいるからそっとしておいてほしい、今はアニーの話を聞く余裕がないという金之助に対して、非常に配慮のない主張ではあるが、それが金之助の心をつかんだのでまあいいのだろう…)しかし最後にアニーは言う。「あたいの夢はもういい」と。夢の話以外に話すことのない彼女が、その夢を捨てた。彼女にはもう話すことがない。話す体も、時間もない。話すこと、でひとは繋がる。話さなければ分からないからだ。けれど話すことを否定され、嗤われるひとたちがいる。話し方の否定、話す内容の否定は、かれ(彼女)のひととの繋がりを断ち切っているのと同じことだ。そういう本筋ではない脇の部分で楽しめる作品だった。
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2012.11.25 Sunday
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ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 EVANGELION:3.0 YOU ARE (NOT) REDO./巨神兵東京に現る 劇場版
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みてきましたヱヴァQ!エヴァに関しては分析とか考察とか理解とかするつもりは元々なくて、けれど到底答えの分からないものをうだうだ考えるのは楽しいので、ぐだぐだ書く。ネタバレだらけ。
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2012.08.02 Thursday
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「エイトレンジャー」
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監督:堤幸彦
脚本:高橋悠也
横峯誠:横山裕
渋沢薫:渋谷すばる
村岡雄貴:村上信五
丸之内正悟:丸山隆平
安原俊:安田章大
錦野徹朗:錦戸亮
大川良介:大倉忠義
三枝信太郎:石橋蓮司
鬼頭桃子:ベッキー
総統:東山紀之
キャプテン・シルバー:舘ひろし
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一切下調べしないで見に行ったらコンサートでやってた関ジャニ戦隊∞レンジャーとは全く別物だったよの巻。しかもわたしの∞レンジャーについての知識は2006年のFTONツアーで止まっている。
というわけで関ジャニ∞である。NewSの掛け持ち騒動を経てデビューして、七人になってしまったすこしあと、上記のFTONツアーくらいまでは結構まじめに通っていた。宗教担って言われてた時代だよ!今も言われてるのだろうか。錦戸担だったけど、根っこにあるのは渋谷すばる一神教だと思います。
別に嫌いになったわけではないので、テレビで歌ったりしゃべったりしていると嬉しくなったり、相変わらずわいわい騒いでいる姿を見て微笑ましく懐かしくなったりしている。そんなかれらが映画になったと言うことで、特に何も調べずに行ったのだ。
さすがに敵がBAD団だということはないだろうと思っていたが、それぞれのキャラも異なる、別の世界の話だった。
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2035年、荒廃した日本の都市、八萬市(エイトシティー)。一部の優秀な子供とその家族のみが優遇され、それ以外の人間たちは非常に貧しい暮らしをしている。正体不明の「総統」と呼ばれる男が率いるテロリスト集団・ダーククルセイドが子供を浚って売買しているが、警察機関はまともに機能していない。市民を救うのは、ヒーロー協会が派遣するヒーローのみだ。
借金取りに追われ、命の危険に晒されていた横峯は、一人の男性に助けられる。ヒーロー協会の会長だというその男・三枝は、行くあてのない横峯をヒーローに勧誘する。そして横峯は「エイトレンジャー」のリーダー、ブラックに任命される。
ヒーローたちは協会から時給制の賃金を貰っている。というよりも寧ろ、賃金のためにヒーローになったものばかりだ。レッド・渋沢はアルコール依存症で金がなく、パープルもといナスの村岡はモテたい一心で美容整形を繰り返し金がない。オレンジの丸之内はネットショッピング依存、ブルーの安原は青いものを見つけると買い占め、お人よしの大川は詐欺に騙されてすぐに振り込んでしまうので金がない。売れていた時代が忘れられないミュージシャンの錦野は、今の人気に見合わない自分のグッズを山のように作るため、金がない。
六人の事情に驚いていた横峯も、ギャンブルで借金をしているのだから同じようなものだ。金のために仕事としてヒーローになった。しかもその仕事にすら、かれらはやる気がない。トレーニングもまともにやらないし、何かあればキャプテン・シルバーがいるから大丈夫だと思っている。
町に出て人々が困っている姿を見れば胸が痛むし、助けを求めている子供がいればなんとかしてやりたくなる。何もできない自分を不甲斐なく思い、犯罪者に憤りを感じる。そのためにヒーローとして何かしたいと、横峯は思う。警察官だった父親が失踪した過去を持つ横峯は、「捨てられる」ことに過敏なのだ。己の力量を知っているので実際に行動には出ないけれど、その気持ちにある程度同調できる渋沢と村岡。
一方他の四人はそんな風には思えない。ヒーローよりももっと条件の良い仕事のメンバー募集を見つけたかれらは、三人にも協会にも黙って、その仕事にエントリーする。
買いおきしている栄養ドリンクを飲みながら、一人で戦い続けるキャプテン・シルバーの生き様。腐敗しきった八萬市の警察の中で、一人悪と戦い続ける桃子が秘めている復讐の炎。村岡が片思いしている遥も、桃子に憧れて彼女に協力しようとしている警察の一員だ。
ストーリーの骨子は非常にありがちな戦隊もの・ヒーローものだ。あいつとあいつが親子だったとか、きょうだいだったとか、敵だった・味方だった、最後に色々な誤解が解ける、けれど奪われてしまったものもある、そういう話。
そこに普通のヒーローものでは許されないようなエピソード、つまりブーツの先に隠しカメラを潜ませて日常的に盗撮をしているヒーローとか、アル中で酒がきれるといきなり臆病になるヒーローとか、使ったことのないコンドームをお守りにして持ち歩いているヒーローとか、そういうものが入りこむ。ばっかばかしくて、そのばかばかしさが微笑ましい。
新入りにセンターをはらせるのは納得いかない、と言っていたイエローが、決戦に向かうために一列になったときに、自分から立ち位置を移動してブラックに譲っていたところが可愛かったなー。
三馬鹿が飲みに行った居酒屋に貼られている、ありがちな女の子のポスターが錦戸と安田だったりするような遊び心もかわいい。
無精ひげで丸眼鏡で汚い格好でもかわいい渋谷すばるファンタスティック!
最後に七人でツナギ姿のままコンビニから出てきたシーンがとっても可愛かった。めいめいに喋りながら、お昼ごはんを買うヒーローたち。男子高校生みたいだなーかわいいなー。かわいいは正義!正義の味方がかわいいはもっと正義!
キャプテン・シルバーすごく格好よかったんだけれど、折角のマントが全然さばけていなかったことだけは要指導ですよ!勿体無い!マントを意識した生活を!
あと総統のビジュアル素晴らしかった。軍服軍帽赤のケープ付外套。目元にうっすら残る傷。かれが出るシーンが少ない上に非常に暗い場所にいるので、はっきり見えなかったのが非常に口惜しい。東山先輩のコスチュームプレイは極上!!!主役はツナギなのに!
常に怒った顔で何もかもをにらみつけているような桃子を演じたベッキーも良かった。峰不二子のようなボディラインが出る黒のつなぎに黒のヒールを履いていたんだけどすごくさまになってて格好いい。にこにこしてるイメージしかなかったので新鮮。
問題は解決していない。総統は無傷で君臨しているし、自分の方針を改めるつもりは全くない。さらわれた子供がどういう末路をたどるのか、も明らかになった。八萬市に平和はまだ来ていない。
いくらでも続きが作れるラストだった。
続き?あればまた行くよ。
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2012.07.20 Friday
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ヘルタースケルター
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原作:岡崎京子
監督:蜷川実花
りりこ:沢尻エリカ
麻田誠:大森南朋
羽田美知子:寺島しのぶ
奥村伸一:綾野剛
吉川こずえ:水原希子
沢鍋錦二:新井浩文
保須田久美:鈴木杏
比留駒千加子:住吉真理子
南部貴男:窪塚洋介
和智久子:原田美枝子
多田寛子:桃井かおり
原作は既読だけれど、特に思い入れはない。勿論きらいではないけれど、特に好きな作品でもないというのが本音。蜷川実花は写真家としてはすごく好きだけれど、「さくらん」は見ていないので映画監督としては初めて。
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トップモデルのりりこは、全身整形によって美貌を手に入れたという秘密がある。気性の激しい彼女は自分の美が失われること、自分の勢いが続かないであろうことに怯え、マネージャー・羽田に当り散らすことも少なくない。
若くてうつくしい後輩モデルの登場や恋人の婚約などにより、りりこの精神は徐々に破綻していく。
ひたすらりりこの物語だった。美しさを後天的に手に入れた彼女が、自分の美しさに見とれ、美しさゆえに傲慢になり、美しさゆえに奔放に振舞う。彼女自身が妹に言ったように、彼女は美しいから強くなった。人の目も、揶揄も、批判も恐れない。マネージャーが持ってきたミネラルウォーターの温度が好みじゃないとぶち切れ、メイクルームに訪ねて来た恋人とその場で抱き合う。真っ赤な下着に濃いメイク、自室で高いヒールの靴を履いて煙草を吸う彼女は強くて美しい。
りりこは女王様だけれど馬鹿ではない。自分に演技力や歌唱力や話術がないことを知っているし、自分が替えのきく一時的な存在であることも知っている。だから映画の出演時間のためにプロデューサーと寝るし、仕事を休めば忘れ去られると分かっているからひたすら仕事を詰め込むし、金持ちのお坊ちゃんである恋人との結婚を狙って情報をリークさせる。強い彼女の心の中には、いつだって不安がある。どんなに支持されていても、どれほど歓声をあびていても、彼女は安心できない。何十万人が自分を好きでも、自分はそのひとたちのことを知らない、と彼女は言う。
カメラのシャッターを切られるたびにからっぽになる、とりりこは言う。けれどそのシャッターの音と、安っぽく繰り返される呪文のような「かわいい」「最高」の声で彼女は輝き、甦る。
沢尻エリカはとにかく可愛い。可愛くて綺麗で美しくて、非常に不安定だった。撮影後もりりこの演技に引きずられていると報道されていたけれど、実際に映画を見ると納得する。
りりこの画像を見た検事・麻田は「一見完璧に見えてバランスがずれている」と言う。皮膚と表情と骨格がアンバランスなのだ、と彼女の笑顔を称していた。そう言われてみると、本当にそう見えてくる。沢尻エリカがそう見せてくる、のだ。
羽田との最初の絡みのシーンが凄い。りりこの整形は、単に手術をして完了、の世界ではない。薬とメンテナンスを定期的に摂り続けることでしか維持できないように出来ている。だから放っておけばりりこの体には黒い痣が浮かんでくるし、髪が抜けたり、皮膚の反応が鈍くなってくる。自分の顔にその兆候を見つけたりりこは、部屋の掃除をしながらりりこの美しさを熱弁する羽田の言葉に相槌を打ちながら、涙を零す。真っ黒に縁取られたアイメイクを越えて、彼女の体で数少ない「もとのまんま」の目玉から涙がこぼれる。けれど口元は笑っている。りりこの表情はいびつで、不気味で醜くて、けれどやっぱり美しい。「バランスがずれている」顔だ。ここの芝居が凄すぎてふるえた。
そしてそのあとりりこは泣いていたそぶりも見せず羽田に近づき、彼女を誘惑する。羽田が心酔する美しさで彼女を魅了する。沢尻エリカがすごければ、寺島しのぶはもっと凄い。原作の羽田は20代前半の女性だったが、映画の羽田は35歳だと名乗っている。なぜ羽田の年齢を上げたのか、寺島しのぶにキャスティングしたのか、不思議だった。その確固たる理由はやっぱり分からないけれど、ともかく凄かった。
原作の若い羽田は、その年齢もあって世間を知らないところがあり、おそらく初めて就いた仕事に全力で取り組んでいる。同世代であろう彼氏も仕事をしていて、お互いに愚痴ったり労りあったりしながら同棲している。若いので肌は綺麗だけれど、安い化粧品しか使えないので、りりこにランコムのスキンケアを貰って喜んでいた。
映画の羽田は35歳で、化粧っけが全くなく、りりこに口紅をもらっていた。同棲しているのは年下で、派手な容姿の彼氏だ。りりこの仕事の影響でしばらく家に帰れないというとき、羽田が財布から札を数枚出して食事代だと言っていたのでおそらく無職だろう。仕事から帰ってきた羽田がかいがいしく、似合わないぶりぶりのエプロンをつけて料理をしているのを尻目に、ひたすらソファでゲームをしている。
羽田はお人よしで、馬鹿で騙され易い女だ。人の裏を見ることをせず、言われたとおりに振舞う。似合わないエプロン、ダサい下着(この下着のチョイスは神がかっていた…!!!)、見ているだけで苛々する要領の悪さ。その裏に、狂気のようなりりこへの心酔を秘めている。巻き込まれた感じがつよかった原作の羽田と異なり、映画の羽田は自分で選んで行動した印象がある。りりこに惹かれ、彼女は自分の行動を決めた。りりこの命令に従う、という決断をしたのだ。だから、南部の婚約者を襲ったときも、奥村より羽田の方がキモが据わっていた。
奥村がダメなヒモ(推定)になったことでより一層羽田の要領の悪さ・バカ女っぷりが明らかになった。ふたりの部屋に来たりりこの誘惑に、簡単に乗ってしまいそうなのは映画の奥村だ。
りりこの美しさ、りりこ・羽田・奥村のドラマが濃厚に描かれた分、端折られてしまったのが和智久子を中心にしたクリニックの問題だ。違法な医療行為を重ねていたクリニックの実態や、和智久子の考えなどがぼやけてしまった。麻田がどういう事件を追っていたのか、映画だけを見るとすこし不明瞭ではないかと思う。
個人的には、この和智久子が化粧っけのない女であったという事実と、顔に傷を負った南部の婚約者が母親と一緒に彼女のクリニックに縋ったというエピソードが物凄く印象的だったので、削られてしまったのは残念。南部の婚約者もまた「タイガー・リリー」であったということ、女性心理を煽ってたくさんのタイガー・リリーを生み出した女が自身の美を求めなかったことは非常にシニカルでいいエピソードだと思う。
あと最大のあおりを食らったのはりりこの妹と麻田の関係かな。容姿と気弱な性格でいじめられている千加子に、麻田はりりこの話を聞こうと近づく。彼女の過去の写真を麻田が手にしたのは、かれに憧れていた千加子の強力があったからだ。
りりこが失踪したあと(おそらく)数年が経過したのち、麻田は渋谷の交差点で、かつてよりかなりきれいになった千加子と偶然再会する。前半部分が全くなかったので、数年後のシーンでいきなり千加子が麻田に親しげに話しかけてくるのにびっくりすることになる。
濡れ場そんなに長くなくていいからこっちをもうちょっと見せてよ、と思った。
南部貴男は窪塚洋介。窪塚洋介って格好良いんだな、と今更知ったよ…キャスティングを聞いたときから、漫画から出てきたような似方をしていると思っていたが、想像以上だった。顔がよくて金があって女にもてて、空っぽの男。なりたいものを見つけては片っ端から諦めてきた男は、人にも諦めることを強要する。りりこには自分との結婚を、婚約者には自分とのまともな夫婦生活を諦めさせる。
婚約者がけがをしたあと、りりこは南部と久々に会う。壁を壊すことをせず諦め続けてきた男の言葉を、抱きしめながら聞くりりこの表情は、もはや恋愛をしている人間の顔ではない。仕事も恋人も自分の美貌すらも、自分の手で奪ってきた彼女には、南部はどういう風に見えたのだろう。
こずえも良かった。すらっと伸びた手足と白い肌と、あまり化粧をしていない整った顔。彼女の美しさは、存在するだけでりりこを傷つけるナイフのようだ。
南部の婚約者だけでは飽きたらず、こずえの顔を傷つけるようにりりこは羽田に命令する。思いつめた顔の羽田が自分にカッターナイフを向けたときも、こずえは動じない。どうせ自分もそのうち飽きられる、刹那的な「欲望処理装置」だとこずえは知っている。
モデルの仕事にも人気にも執着しない、生まれながらに美しいこずえ。彼女こそ、りりこが語る「きれいだから強い」の体現者だろう。
映画は、りりこについて関係者が語るシーンを挟む演出で進んでいく。その中でこずえは、「モデルは皆(体型維持のために)吐いている」となんでもないことのように語っていた。実際この日の彼女も、トイレで慣れた手つきで吐いていた。個人的にはこれでこずえのイメージがブレてしまった。渦中にいてなお「タイガー・リリー」にならないのがこずえだったのに、彼女も片足を突っ込んでいるような感じになっている。遊園地でポッキーを食べているところなんかはすごくこずえっぽいのになー。
繰り返す手術と投薬、そのたびに仕事を休まねばならないことへのストレス。自分が休んでいた間にこずえが表紙を飾っていたことを知ったりりこは思いつめる。ビルの屋上にむかう彼女を社長、羽田、メイクのキンちゃんが必死で宥める。屋上で座り込んで、「もうこんな仕事やだ」と泣きじゃくるりりこはまだ少女のようで、それだけに痛々しい。どうしても沢尻本人と重ねてしまって、余計につらい。思わず貰い泣きしてしまった。
生きづらいだろうけれどいい女優だよなあ。鈍化すれば多少は楽だろうけれど、たぶんこの嗅覚あってこそのこの芝居だと思うので、なんとかこのまま女優として続けていってほしい、と思わされる。
錯乱したりりこが見ている幻覚が面白かった。セットの苺に目玉が出て、林檎に口が出て、沢山の蝶が飛び回る。戸川純!マメ山田!(なんという蜷川遺伝子!)
羽田によって全てが白日の下に晒された。押し寄せるマスコミの前で、「特殊メイク」ばりに手をかけて美しくなった彼女は、ナイフを自分の目につきたて、そのまま倒れた。整形を重ねたりりこの、数少ない「そのまんま」の部分。どんどんオリジナルの部分を削って、彼女は更に強くなるのだろう。
全身整形の話、欲望処理装置の話で浜崎あゆみの曲がかかるって、話を持ちかけた方も許可した方もすごいかっこいいと思うよ…。
見ているだけで生気を吸い取られてしまいそうな反面、背中を思いっきり押される映画でもある。物語としての完成度はそこそこで、映像としての完成度はなかなかいい。カメラワークというのか絵コンテというのか、ところどころ違和感を感じることもあれど、どこを切っても濃厚でむせかえるような作品だった。
りりこやこずえが表紙を飾るファッション誌が実在のものであることを始めとした細部へのこだわり、一瞬の撮影シーンのためのメイクとドレスがいちいち可愛くて良かった。羽田の絶妙なダサさ、足が痛くてすぐに脱いでしまうにも関わらずヒールを履き続ける社長の美学、雨の中を走るときですらピンヒールの(おそらくそうでない靴を持っていない)りりこ。オネエであるヘアメイクキンちゃんの服装。全力でオシャレで、全力でイマドキで、全力で消費される刹那的なものたち。残酷で面白かった。
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2012.07.11 Wednesday
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Studio Life「シモンとヴァリエ LILIES」<BLANC>
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作:ミシェル・マーク・ブシャルド
上演台本、演出:倉田淳
シモン・デュセー:高根研一
ヴァリエ・ド・ティリー:山本芳樹
マリー・ロール・ド・ティリー伯爵夫人:楢原秀佳
ユー男爵夫人:小林浩司
ジャン・ビロドー司教:船戸慎士
聖ミッシェル神父:前田倫良
ユー男爵:大沢健
ジャン・ビロドー:奥田努
マドモアゼル・リディアンヌ・ド・ロジェ:甲斐政彦
晩年のシモン/ティモシー・ドゥセー:石飛幸治
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2003年に上演された「LILIES」、こちらはBLANCチーム。
もうひとつのキャスト、ROUGEチームの感想はこちら。
シモンとヴァリエは2002年の初演から続けてのキャストのよう。(9年前のものとは言えDVDのクレジットの分かりづらさ・テンプレが出来上がっていないHPの記述っぷりがすごい)
地に足のついたヴァリエだった。最初にROUGEを見て、冒頭の「聖セヴァスチャンの殉教」のシーンのヴァリエのへっぴり加減に思わず目を疑ったのだが、山本ヴァリエはきちんと劇中劇を演じていた。いやでもお花畑姜ヴァリエは、あの微妙なポージングのサヌエでいいと思います…かわいいし…かわいいは正義…。
顔にきまじめ!神経質!って書いてある大沢シモンは、その性質ゆえに父を許せず、ビロドーを(友人として、人間として)愛せず、ヴァリエへの思いに葛藤したのだと思った。同様に、その性質ゆえにヴァリエへの思いを全うすることを決心し、早すぎる死の決断を下したようにも見えた。優等生が暴走すると早いよね、という感じ。
それに対してBLANCの高根シモンはもうちょっと荒っぽいというか、年相応の普通の男性の感じがする。髪型・髪色の印象もあるかな。だからこそこの年齢になっても父親に逆らえないこと、父親からの暴力を恐れて行動や感情を制限しようとすることが面白い。体格的にも父親殴って勝ちそうだしこのシモン。でもやらない、できないのは、そういう時代・そういう父子だからだろう。
ティモシー/晩年のシモンはWキャストで結構年齢が違うのね。最後の「俺はお前を生かす」の言い方が、石飛さんのほうが好みだったな。気負いつつもつめたく突き放している。お前のために手を汚すのも感情を動かすのもいやだ、という気持ちと、憎いからこそ望みをかなえてやらないという気持ちが複雑。
シモンに殺してほしかったビロドー司教。自殺が禁じられているからこその願いでもあり、愛するものの手にかかりたいという欲望でもあったのだろう。
曽世さんの伯爵夫人の、浮世離れした感じ・正気と狂気の間にいる微笑み方が好きだ。誰もいない虚空に向かって話しかける、ダンスをするときの手慣れた感じ。楢原さんの伯爵夫人も堂に入った感じですてき。結局のところシモンとヴァリエより、わたしはティリー伯爵夫人が好きなのかもしれない。「最後の場面はいつになったら見られるの?」と言いだしたときはびっくりした。
一番印象的だったのは、「狐狩り」のシーンのあと、夫人が普通に起き上がって去って行くところだ。母を絞殺したあと、ヴァリエはシモンと共にその場を立ち去る。横たわったままの夫人を残したままその場は暗転する。そして数名の囚人仲間が夫人の(夫人役の)もとへ近づき、手を差し伸べる。その手をとって夫人(夫人役)は起き上がり、傍観者に戻る。その一部始終が舞台の上で行われている様子は、灯りを落とされた舞台の上とはいえ、はっきりと見えている。見せている。これがにせものだと、芝居なのだと、作品に没入するあまり忘れてしまいそうになる観客に伝えている。この演出すごい好きだなー。
BLANCのリディアンヌがすてきだった。あだっぽいというかすれっからしというか、ROUGEに比べて恋愛経験が豊富で百戦錬磨の大人の女性っぽい感じがする。そういう女が、たわむれに話しかけた少年に本気になってしまう。舞い上がり、かれの愛情が得られていないのではないかと不安になり、それが確信に変わったときに激怒する。
リディアンヌは気球が爆破されたことでシモンを告訴する、と言った。それはビロドーの仕業であってシモンは無罪だったのだけれど、リディアンヌはシモンの所為だと確信していた。おそらく火を放つシモンのことも知っていただろうから、疑う余地はなかっただろう。更にビロドーが裁判においてシモンに不利な虚偽の証言をしたと、冒頭で晩年のシモンが語っていたので、シモンの罪になったのだろう。爆破事故の詳細が分からないので何ともいえないが、それだけで40年近い禁固刑になるのかな。これまでの放火やヴァリエの件も含まれているのかな。
BLANCの感想じゃないなこれ。
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フランスから、生活能力のない母親と二人きりで、言葉の通じない・気候の異なるカナダへ来てからのヴァリエのことを考え出すと頭が爆発しそうである。「ヨーロッパ製の服」が「ここの気候」に合わなかった、とかれは言った。おそらく既に裕福ではなかっただろうから、貴族にはふさわしくないようなぺらぺらの服だったのかもしれない。
「一セントも」持たさなかった父と別れてたどり着いたカナダは寒くて凍えそうだった。偶然出会ったシモンがコートを貸してくれたという話から、ビロドーが「聖人」と呼んだシモンの人間性と、ヴァリエのあわれな様子が想像できる。感謝を表現する言葉すら知らなかったであろうヴァリエは、どうやってコートを返したのだろう。
自分たちの面倒を「六年間給金をもらわずに」みてくれるティモシーとの出会いも、ケベックに来てからだろう。シモンがティモシーの子だと知って驚いたのかな。時系列がわからないけれど、父が仕える家の子だからコートを貸したという打算はシモンにふさわしくないように思う。あと実は父の仕えるおうちの伯爵さまだった!っていうほうがドラマティック。六年前だと思うと12歳13歳くらい…ヒィィ。
ちょっとずつ言葉を覚えて、神父に金を出してもらいながら学校に通い、「廃墟」に住みながら母に黙って仕事をして金を稼ぐヴァリエ。貴族、伯爵であること、それにふさわしい在り方を説かれてきたであろうかれにとって、ケベックでの生活は並大抵のものではなかっただろう。それをシモンが支えてきてくれたのかと思えば床をのたうちまわりたい気持ち。
あと学校の屋根裏部屋ってそもそもシモンがビロドーに教わった場所だったり、シモンとビロドーが共有していた場所だったら残酷でいいなーと思っている。もしくはシモンが見つけて息抜きに利用していたのを、善意のストーカー・ビロドーさんが見つけたのかな。シモンはどうも最初からビロドーを(友人としても)好きじゃなかったようなので、これが一番ありそうかな。
考え出すと止まりませんね!!!
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2012.07.08 Sunday
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Studio Life「シモンとヴァリエ LILIES」<ROUGE>
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作:ミシェル・マーク・ブシャルド
上演台本、演出:倉田淳
シモン・デュセー:大沢健
ヴァリエ・ド・ティリー:姜暢雄
マリー・ロール・ド・ティリー伯爵夫人:曽世海児
生徒:小林浩司
ユー男爵夫人:前田倫良
ジャン・ビロドー司教:河内喜一郎
聖ミッシェル神父/ユー男爵:石飛幸治
ジャン・ビロドー:舟見和利
マドモアゼル・リディアンヌ・ド・ロジェ:藤原啓児
晩年のシモン/ティモシー・ドゥセー:重松収
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Twitterでおすすめしてもらった「LILIES」、気になったのでDVD買っちゃった。2002,2003,2009年に上演されているもののうち、これは2003年の再演分。ROUGEチームBLANCチームのWキャスト制で、こちらはROUGE。
結論から言うとものすごく好みであった…世の中にはまだまだわたしの知らない、好みのものが溢れているんだなあ恐ろしいやら嬉しいやら。 2002年と2009年のDVDも出たらいいのに…。
あと2009年に物販で上演台本が販売されていたと知ってものすごい歯軋りしている。ほしい!よ!!!
案の定長い感想。
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1952年カナダ、ケベック州の刑務所。かつて同じ学校に通っていたシモンへの面会に訪れたビロドー司教。あくまで距離をとった接し方をする司教に対して、シモンはかれが嘘の証言をしたことについて・過去に何が起こったかについてを言及しようとする。囚人仲間に過去の自分達を演じさせる、シモンの舞台が始まる。
ここから先はシモンの紹介による過去回想ではなく、シモンと囚人仲間が三年間練習してビロドーに披露する芝居(劇中劇)である。だから男性が女性役も担う。だからこの場合のキャストは「女性役をやっている男性」ではなく、「女性役をやっている男性囚人役をやっている男性」なのだ。登場していない人々も舞台の端で座って他のシーンを見ている。当然シモンとビロドー司教も、その一連の芝居を見ている。
1912年。発表を目前に控えた「聖セヴァスチャンの殉教」の舞台稽古のため、聖ミシェル神父がシモンとヴァリエを指導している。セヴァスチャン役のシモンとサヌエ役のヴァリエは、神父が席をはずした隙にお互いの愛情を確かめ合う。
そこへ遅刻してきたビロドーが現れ、シモンとヴァリエの関係を「疫病」と非難し、自分の母親たちが抗議したことで「聖セヴァスチャンの殉教」はお蔵入りになるであろうと神父に告げる。
シモンとヴァリエの「屋根裏部屋での行為」を目撃したビロドーは、二人の関係をヴァリエが「愛」と呼んでいることを主張し、いっそう非難する。腹を立てたシモンはビロドーに「地獄を見せてやる」と言って、力任せに唇を奪う。
とりあえずガッチガチのカトリック、ということを念頭に入れて見ないと主題がぼやける。信心深いビロドーにキスすることがイコール「地獄を見せる」ことになる、舞台なのだ。
そしてここは刑務所の中である、ということ。だから衣装は囚人服か、囚人が手に入れられるもののみ。カーテンや布を巻いただけの衣装とか、カッターシャツを後ろ前に着て作ったドレスとか。机や椅子も箱などを駆使して作られたものだ。
比較的常識人っぽいシモンと、お花畑のヴァリエ。まずはじめに、2003年の姜暢雄の可愛さが半端ない、ということを申し上げたい。もともと好きな顔だっていうのもあるんだけれど、ヴァリエのお花畑パーソナリティを更に彩る可愛さ…。あと上背があるので、シモンと同じくらいかちょっと高いくらいなのもいい。でもお花。ばっちり決まらないところ、稚拙なところは沢山あるんだけれど、ずっと全身全霊でやってるような必死っぷりが、手練手管や駆け引きを使うことをしないヴァリエと重なる。
そこへ、以前から聖ミシェル神父の舞台を好んでいるヴァリエの母、ティリー伯爵夫人が現れる。ビロドーとシモンは去る。パリから気球でカナダに来たリディアンヌ・ド・ロジェという女性から、自分の夫(ヴァリエの父)がパリで成功し、もうすぐ自分達を迎えに来ることを聞かされた夫人は、それを息子に告げに来たのだ。
ヴァリエの家に仕えているシモンの父・ティモシーも大喜びだ。以前からパリに行きたいと願っていたかれは、息子ともどもパリについていくことを楽しみにしている。
ビロドーが「気ちがい」と呼んだように、伯爵夫人は夢と現実の間を彷徨っている。貴族ならではの浮世離れした感覚、おっとりした物言いと皮肉屋なところ、気位の高さ、色々なものがとにかくアンバランスで魅力的。母を愛しているヴァリエでさえ、夫人の言葉をすべては信じない。その証拠に、嬉しそうに話す母に相槌を打ちながらも、かれは何度も「ティモシー本当なの?」と母親の言葉の真偽を確かめる。
そこへ神父が現れ、非難によって「聖セヴァスチャンの殉教」が上演中止になったことを夫人に告げる。先ほどシモンがビロドーにキスしていた場面を見ていた夫人は、それを神父の斬新な演出だと高く評価する。息子の話を聞いたティモシーは怒り、シモンを探すためにその場を去る。
*
ホテル・ロベルバールのテラスで、シモンは医師であるユー男爵から背中の傷の薬を受け取り、傷の原因について問われている。暴力を受けたと確信している男爵は本人の口からそれを言わせようとするが、シモンはしどろもどろになってごまかす。同じくテラスにいたリディアンヌ・ド・ロジェはその会話に口を挟み、シモンをからかいながらも慰めようとする。
シモンを探しに来たヴァリエが現れると、シモンから離れたリディアンヌは、自分がある夫人についた嘘について話し始める。パリにいる音信普通の夫について尋ねてきた、時代遅れのドレスを着た貧しそうな夫人の気が晴れるように、嘘をついたところ彼女はまんまとそれを信じ、夫宛の手紙を息子に預けたらしい、と。その夫人とはティリー伯爵夫人であり、息子というのがヴァリエだった。その話に絶望したヴァリエは彼女を責め、母からの手紙を渡してその場で破り捨てるように言う。
うまく嘘がつけないシモンと、上手な嘘のつき方を教えてやろうとするリディアンヌ。そこから、彼女が最近ついた見事な嘘に話が転がる。
ユー男爵はおそらく傷の犯人がティモシーだと気づいているはず。
リディアンヌたちが去ったあと、二人きりになったシモンとヴァリエ。そっけない態度をとるシモンに戸惑うヴァリエに、シモンは自分の背中の傷を見せ、ティリー伯爵夫人の言葉によって自分が父親に折檻されたことを告げる。
ティリー伯爵夫人の言葉と、ヴァリエのへたくそな弁解がティリーを凶行へ走らせたと憤るシモン。ヴァリエといることはかれにとって鞭打ちの刑と隣り合わせだ。
ティモシーを罰すると怒るヴァリエだが、六年も給金を貰えず、更には薪や食料を分けてやっている父親に対して、ヴァリエがそんな口を聞く事をシモンは非難する。シモンの言葉に打ちひしがれたヴァリエは、シモン宛に書いた手紙を破る。
ティリー伯爵家の家計が火の車であることが明らかになる。
シモンが去ったあと現れたリディアンヌの誘惑に、シモンは乗る。ヴァリエへの思いを見抜くリディアンヌに対して、シモンはそれを否定し、彼女にキスをする。
目撃したビロドーが「ここはホテルのテラスだぞ!寝室じゃないんだ!」と叫んでいることからも、当時の風潮と、なによりかれの価値観が見える。何かと母親と二人の女性の言葉を持ち出してひとを非難するビロドーの価値観・宗教観はがちがちだ。ビロドーのいかにも、という嫌味な物言いが好き。真実、常識、正義の名のもとに人を批判するゴシップ好きの少年。
かれがヴァリエに「リリー・ホワイト」というあだ名をつけたのはどうしてなんだろう。嫌味か、名前を呼ぶのがいやだからか。
*
修道院の家事の消火活動に出ていたビロドーはヴァリエの家を訪ねると、ティリー伯爵夫人にシモンとリディアンヌの婚約をヴァリエに伝えるように頼み、立ち去る。
シモンが関わっていないシーン、ヴァリエすらその場にいなかったシーンを、シモンの指揮で演じていることをビロドー司教は非難する。けれど、その場にいなかったことも知っている証拠がある、とシモンは動じない。
その後疲れた顔のヴァリエが現れる。身だしなみを整えることを忘れ、労働者のような荒れた手をしていることをたしなめる夫人に、ヴァリエは真実を話す。学校を出た後魚釣りのガイドとして働いていること、13歳の時からずっと母の目を盗んで働いて食費を稼いでいたこと。それを知った母は嘆き、「お父様のように卑怯者」だとヴァリエを責める。
インディアンたちと一緒に湖のガイドをして生計をたてているヴァリエ。「13歳の頃から」働いていたヴァリエ、「六年間も貰っていない」ティモシーという言葉を鑑みるに、カナダに越してきたかなり初期の段階から(もしくは最初から)、家計は逼迫していたのだろう。
一銭も渡さず妻子をカナダへ送り、何の連絡もよこさない父と同列にされたことで怒るヴァリエ。しかし伯爵夫人はヴァリエが父に宛てた手紙を盗み見たことで、かれが父親を深く思っていると確信している。それは父宛ではなく、かつてシモンに宛てて書き、ロベルバールのテラスで渡せずに破ってしまった手紙だった。
それを父に託すようリディアンヌに渡した、という夫人の行動にシモンは動揺する。ヴァリエの中に親子の情以外にものが宿っていると気づいた母親に「シモンを愛しているんです」と言うヴァリエ。とうに知っていた夫人は嬉しそうに微笑み、かつてシモンが書いた愛の手紙を呟き始める。次にヴァリエが、そして囚人達が唱和する。
何かを盗もうとしていた女中がヴァリエの引き出しを開けているところを見て手紙を見つけた、その女中はその場でクビにした、と夫人は言った。けれどこの家に女中はいないし、そもそも盗むようなものもない。何かを察した母が勝手にヴァリエの引き出しを見たのだろう。そのことをいちいち言及せず、ヴァリエは手紙を取り返そうとする。しかしそれは既にリディアンヌの手元にある。おそらく彼女がそれをシモンに見せ、何かあると火を放つシモン(なんでヴァリエもビロドーもそんな男がいいんだろう)が修道院を焼いたのだろう、とヴァリエは考える。
ヴァリエの動転に父子の情以上のものを見た夫人の尋問により、ヴァリエはとうとうシモンを愛していると告白する。それを聞いた夫人は微笑み、「あなたの口から聞きたかった」と言う。私の隣にはあなたしかいないのだから分かっている、と。
微笑んでシモンが「女中は?」と夫人の想像上の人物をからかうところも含めて、このシーン凄く好きだなー。ビロドーへのキスに激怒して折檻したティモシーと、愛を寛容に受け入れる伯爵夫人。愛情表現に臆さないところが、ヴァリエは母譲りなのだろう。
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ホテル・ロベルバールのテラスで、シモンとリディアンヌの婚約を祝うパーティが催されている。
歳の離れた女性との急な結婚を揶揄するビロドー、釣りにたとえて二人の関係を皮肉るユー男爵夫人、舞台になぞらえて非難するティリー伯爵夫人、人前でしかキスをしないシモンの愛情を不安に感じているリディアンヌ、裕福な女性との結婚を喜ぶティモシー。
何もかもを手放しで喜んでいる父に対してシモンは、これまでの鬱憤をぶつける。リディアンヌと気球で発つシモンは、「あんたは連れて行かない」と言う。
シモンとティモシーの確執は、何も鞭打ちの件ひとつに限ったことではない。このシーン、ティモシーを演じているのがシモン自身だと考えると、実際より憎憎しげに演じていたりするのだろうか、と思わなくもない。
そこへ、シーザーに扮したヴァリエが登場する。驚く人々を前にして、パーティの余興だと示したヴァリエは「聖セヴァスチャンの殉教」を演じはじめる。戸惑っていたシモンも芝居に参加する。
激怒するティモシーだが、ヴァリエに鞭打ちの話を出されて絶句する。シモンの背中の傷の犯人を確信したユー男爵を始めとした人々は去り、最後に残った母の足元に縋ってヴァリエは号泣する。
道化を演じて必死にシモンへの愛情を表現したヴァリエ。そんなヴァリエを愛している母親がいるからこそ、かれは「自分を誇りに思う」ことができるのだ。ここに限らず泣きの演技がかわいい。
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19歳の誕生日を迎えたヴァリエに、伯爵夫人はバスタブを用意して祝福する。大喜びして風呂に入るヴァリエに、これだけではない、と夫人は言う。明日は狐狩りに行きましょう、と彼女はいい、泥で出来たケーキを持ってくる。
バスタブをどうやって手に入れたのかと聞くヴァリエに、「マリア様に」借りたという夫人。この後のことを思えば、残り僅かな手持ちのものを売って金をつくったのかな、と想像できる。
この段階で既に彼女が「狐狩り」の予定をしていることがすごく気になる。
そこへ、リディアンヌと発つ日が近づいているシモンが現れる。気球が放火されたことで出発の日がずれこんでいるのだ。贈り物の本を渡したあと、リディアンヌを愛せない苦悩を打ち明けるシモンをヴァリエは励ます。なんとか元気付けて送り出そうとするが、ヴァリエも引き止めたくて仕方がない。最終的にシモンはヴァリエへの思いを断ち切れず、二人は愛情を確かめ合う。
誕生日にきっちりプレゼントを持ってくるシモンの恐ろしさ。
お風呂なので裸です。膝抱えて風呂入ってるヴァリエかわいいよ…。マリッジブルーのようなことをつらつら言うシモンの愚痴をきいて、励ましてやるヴァリエ。リディアンヌへの愛がないのなら自分のもとにかれを引き戻すチャンスだし、シモンもある程度その選択肢を持った上でここへ来たと思うんだけれど、ヴァリエはそれを利用しない。まだ自分に気がある別れた恋人に今の恋人のことを言うシモンを責めることもない。
男が欲しがる全てを手に入れた、とヴァリエはシモンを評する。自分にはそんな器量はない、羨ましい、というヴァリエの言葉にシモンは「君は美しいよ」と言う。それを聞いたヴァリエは立ち上がり、自分の姿をシモンに見せて、「本当にそう思う?」と尋ねる。イエスと言って抱きしめて欲しいのか、ノーと言って立ち去って欲しいのか、かれ自身も決めかねているような感じがする。
結局忘れられず、別れられず、服のまま風呂に飛び込んでヴァリエを抱きしめるシモン。気球を壊したことがヴァリエの手柄だと思っているシモンはそれを賞賛するが、ヴァリエは反対にシモンがやったのだと思っていた。二人は笑い、運命を味方につけたような気分になる。
そこに現れ、息子の恋の成就を喜ぶティリー伯爵夫人。だがビロドーに案内されたリディアンヌも二人の前に現れる。リディアンヌの気持ちを逆なでするような言葉を続ける伯爵夫人に、とうとうリディアンヌは自分がかつてついた嘘について告げる。自分が以前話したことは全て嘘で、実際にはヴァリエの父は妻子とともに暮らしていたという。
気球に放火したことを告訴する、というリディアンヌ。自分ではない、というシモンの言葉も届かない。シモンがロベルバールから出て行かないことを喜ぶビロドー。
最初は将来のことを考えてリディアンヌを選ぶことをシモンに薦めていたビロドーが、リディアンヌへの嘲笑を明らかにしはじめたのは、彼女がシモンをロベルバールから連れ出す存在だと分かったからだった。シモンとかつてのように親友関係に戻りたいビロドーには、最初はヴァリエが、次にはリディアンヌが邪魔になった。
だからこそリディアンヌにシモンとヴァリエの関係を見せつけ、二人の婚約を解消させることを狙ったのだ。
絶望した伯爵夫人は泥のケーキを食べ始めるが、ヴァリエによって制止される。
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翌日、予定通り幻想の狐狩りに出かけるヴァリエと伯爵夫人。全ての持ち物と愛を遺す、と告げた夫人は、自分を殺すようにヴァリエに頼む。ストールを顔にかけて横たわった夫人に、泣きながら土をかけるヴァリエ。最期まで自分に話しかけていてほしいという夫人に、ヴァリエはシモンとの出会いを語る。寒い冬の日の出会いを話しながら、ヴァリエは母親に馬乗りになって彼女の首を絞める。
狐狩りが終わったら、ヴァリエをおいて「パリへ行く」と夫人は言っていた。もうすぐ最終便だと言いながら、彼女は自分の最期の場所を探す。彼女は「聖セヴァスチャンの殉教」の台詞を引き合いにして、パリに帰るのは彼女にとって「よみがえる」ことで、そのためには一度「死なねばならぬ」のだとヴァリエに伝える。
狂っている。夫人は一度も、ヴァリエに「殺して」とは言わない。直接的に言わないのが貴族の在りかたなのか、それとも言うまでもなく伝わってしまうのが家族の在りかたなのか。淡々と旅行のプランを話すようにして死の準備をする彼女は誰よりも狂っているけれど、誰よりも正気のようにも見える。彼女が「領主館」と呼ぶ廃墟と、「地中海」と呼ぶ近所の湖と、「愛のすべて」を遺す、と夫人は言う。むちゃくちゃなのに筋が通っているような気がするから不思議だ。
何故夫人がここで死を選んだのか。リディアンヌが真実を明かしたからではなく、ヴァリエの恋が成就したからでもなく、シモンが家を訪ねる前から彼女は既に「狐狩り」を予定していた。夫が来ないことをわかっていたのか、もう息子には自分がいなくても大丈夫だと分かっていたのか、自分が枷になると感じたのか、これ以上貧しく惨めな暮らしを続けていられないと思ったのか。最期まで我儘で、美しい貴族だった。泣きながら土をかけるヴァリエに、「夢が途切れる」から話しかけて、と彼女は言う。生きながら夢とうつつを行き来していた女性は、夢の中を終の棲家に選んだ。
泣きながら必死で土を掘るヴァリエがかわいそうですごくいい。ここの表情が一番印象に残っている。何か話してほしいと思った母が、シモンの話を求めるところも好きだな。最後の会話に選んだのがシモンの話というのが美しい。
ヴァリエの腕に触れていた夫人の右腕がもがくように宙を掻いて、ぱたっと落ちる。ヴァリエもシモンもいいけれど、結局この母親の生き様にすべてを持っていかれた。貧しく(彼女にとっては)惨めな暮らしがいやで夢の中に生きたかと思えば、理性的に死を選ぼうとしたりする。領主館という廃墟でそこにいないゲストを迎えてダンスをしたかと思えば、息子の気持ちを最後まで決して否定しなかった。
「斜陽」のお母さまみたい。
母の死に呆然としているヴァリエのもとにシモンが現れ、状況を把握すると、そのままかれを連れて逃げる。
母の死に泣いているヴァリエは、今にも発狂しそうだ。そのすんでのところでシモンが現れる。一番つらいときにどこからともなく登場する少女漫画の王子様展開!好き!
屋根裏部屋に辿り着いた二人。逃げようというシモンと、この場に留まりたいと願うヴァリエ。そこに逃げるための準備をしたビロドーが現れ、三人で逃げようと持ちかける。しかしビロドーと分かり合えないシモンはそれを突っぱね、かれを部屋から追い出して施錠すると、「俺たちの結婚指輪だ」とポケットから取り出した指輪をシモンに手渡す。
指輪を飲みこんだあと、カンテラを床にたたき付けて火を放つ。抱き合ったまま二人は炎に飲み込まれる。
朝、眼を覚ましたシモンがヴァリエを「太陽が上り始めた、とてもきれいだ、お前に見せたい」と言って起こすところの格好良さがすごい!!ずっとヴァリエとの愛情に躊躇い、怯えていたシモンはもういない。迷いの果てに腹をくくり、喪失直前で取り戻したヴァリエと共にあることをかれは選んだ。
一方のヴァリエはどこかぼんやりとした表情で、少し現実離れしたことを言う。「母に究極の愛を捧げた」かれは、心の一部も母に捧げたのかもしれない。
車を用意し、二人を連れて逃げようとするビロドーにも、シモンをとどめるために気球を壊したと自白するビロドーにも、ヴァリエは動じない。最初はビロドーの援助に乗ろうとしていたシモンも、二人ではなく三人で逃げること、ビロドーの自分への度を越えた崇拝、なによりかれがこの期に及んでも二人の関係を許されない間違いで時間をかけて正していくものだと考えていることを知り、諦める。
先に行け、とビロドーを部屋から出そうとするシモン。それを信じたビロドーは、自分がこれまでにしてきたことの全てを書いた日記をかれに手渡し、別れのキスを求める。この日記が結局シモンの、かれがいなかった場面を描く資料となった。ビロドー司教はそのことすら忘れていたようだ。キスをせがむビロドーを「絶対に嫌だ!」とつっぱねて、シモンはビロドーを追い出す。
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ふたたび1952年。
ここで記憶が途切れているシモンは、この後何が起こったのかをビロドー司教に問う。司教はついに真実を打ち明ける。炎の中シモンを助け出したあと、再び戻ってヴァリエを助けようとした。しかしそのとき、シモンの拒絶の言葉を思い出し、かれはヴァリエを置き去りにした。愛するものを引き離してやろうと考えたのだ、という。更に裁判で偽りの証言、シモンに不利な証言をすればシモンは自分を恨む、自分について考え続けるだろう、と思ったとも。
ビロドーのシモンへの思いは異常なまでの執着を持った友情であり、かれを聖人のように見つめる崇拝でもあった。だからかれはシモンのキスを嫌がって抵抗した。かれは本当にシモンがヴァリエと別れてリディアンヌ(女性)と結婚すればいい、と思っていたのだろう。
そこにそれ以外の感情が入ったのか、最後まで入ってこなかったのか、ははっきりとは分からない。かれが自分の感情をどういう風に見ていたのかも。ただどちらにせよ、気の毒なほど報われない、空回りで独りよがりな情熱だった。
たとえそれが恋=禁忌じゃなくても、気球を壊す、嘘の証言をする、などは立派な禁忌だ。友情のためであれ、ビロドーはその手を罪に染めている。
ナイフを司教に向けるシモンと囚人たち。殺してくれと願う司教に、しかしシモンはナイフを納める。「俺はお前を生かす」と告げて去っていくシモンと囚人たち。ビロドーだけが残される。
シモンにとってビロドー司教と会ったのは、火事のあとに何が起きたのか・かれが何をしたのか、を知るためだった。その内容如何によってはビロドー司教への攻撃も考えてはいただろうけれど、かれは結局何もしない。ビロドーへの許しではなく、何もしないことが最大の罰になると知っているからだ。
ヴァリエが現れるまでは仲が良かったとビロドーは言うけれど、本当にシモンとビロドーが友人関係であったのかは疑わしい。シモンは徹頭徹尾ビロドーへの嫌悪感をむき出しにしているか、そこに存在していないかのように扱うか、どちらかの態度しかとらない。その憎しみすら、ビロドーを喜ばせるものだと分かった今、かれはビロドーの願いを否定することで、かれそのものを否定する。それがシモンの復讐になるのだろう。
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